礼拝説教


2014/2/2  降誕節第6主日礼拝

「自分自身を捧げる」

第一コリント6:12~20
主任牧師 大村  栄

 
◇パウロは6章冒頭で、コリント教会の人々が教会内のトラブルをこの世の裁判によって処理しようとするのを叱責する。神の国を「本国」とするキリスト者は、この世の判定を超えて、神の国の判定や評価に期待し、それに従う者だ。

◇「12:わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」。ルターの『キリスト者の自由』を連想する。何をするのも自由だが、有益でありたい。ただしここで言う「益」は人間の利益ではなく神の益を指す。すべてが自由だが、神の国の利益のためなら自分を捨ててでも奉仕する。それがキリスト者だ。

◇「13:食物は腹のため、腹は食物のためにある」。私たちの体は、欲望に用いるためにあるのではない。「13:体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。

◇そのために私たちは「20:代価を払って買い取られた」。それによって「19:あなたがたはもはや自分自身のものではない」。「自分自身のもの」でしかなかった私たちが、十字架の犠牲によって買い戻されて<神のもの>とされた。その結果すべてから自由になり、主のために用いられる私たちである。そういう自分を、再び欲望に振り回される「自分自身のもの」におとしめてはならない。

◇「20:自分の体で神の栄光を現しなさい」は招詞のローマ書12:1と共通するが、ローマ書はそれに加えて「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と主張する。日曜ごとの礼拝は、自分が多大な犠牲を払って神のものとされたことを自覚する時だ。礼拝だけでなく主の日の生活全体でそのアイデンティティー(自分らしさ)を取り戻したい。

◇この世の判定や評価の先に、それらにまさる最後にして最高の神の国の判定と評価があることを信じて待ち、委ね、やがて「わたしたちの本国は天にある」(フィリピ3:20)、その本国に帰る日まで、この世の務めを置かれた場所で全うしよう。

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