礼拝説教


2014/6/29 聖霊降臨節第4主日礼拝

「疲れたものに力を」

エゼキエル書37:1~14
牧師 加藤 真衣子

 
◇イスラエルは大きな試練を経験した。戦争に負け国民は捕虜となってバビロンへ連れ去られた。エゼキエルは連れ去られた一人だが、捕囚の地で預言者の任務を与えられ、枯れた骨が散在する幻を見させられた。希望がもてなくなるようなところから、神の霊による新しい創造が始まる。それがこの聖書の強いメッセージだ。

◇エゼキエルが骨の山を見たのは「主の霊によって」だった。霊の働きの第一は「骨の山」すなわち現実の破れ、限界、死を直視させることだ。「枯れた骨」はイスラエルを表している。彼らは「望みはうせ、我々は滅びる(11節)」と絶望している。この叫びを、神がお聴きになる。神が私たちの絶望を放っておかれない。ここに、私たちが再び生きることへの出発がある。

◇神の霊の第二の働きは人を「生かす」ということだ。霊という言葉の多くが「生かす」という動詞とセット。かたちが立派に整っても、その中に霊がないために、本当に生きたものとならない。これが私たちの限界だ。この現実の限界を超えるために、人間の破れを貫いて、神が働かれる。

◇私たちが「もうダメだ」というところから、神は何かを始められる。神の力を受けた者たちは集団すなわち教会となる。それは一人が倒れても、手を差し出す助け手がそばにいるということだ。この集団は終わりの日に、すべての者たちが神の前に集められる、その集団だ。すべて造られたものたちが一つの大きな教会として、終わりの日に神の前に集められ、共に生きる。現在のそれぞれの教会は、その大きな喜びを先取りして、地上の一角でそれぞれ集められているのだ。

◇終わりの日の喜びの集団は、カーテンコールに似ている。良い役や悪役、笑う役もあれば泣く役もある。しかしカーテンコールの時には全員が笑顔で拍手を受け、互いをたたえあう。その喜びを毎日曜日に垣間見つつ私たちは生きる。神は私たちの想いを超えて御業を実現なさる。枯れた骨に語られたことを今も、これからも実現なさる。恵みの確かさを実感させられつつ、共に行こう。
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