礼拝説教


2014/9/21 聖霊降臨節第16主日

「ダビデの子イエス」

マルコによる福音書12:35~37
主任牧師 大村  栄

 
◇古来メシア(救世主)はダビデの子孫から生まれると言われていた。しかしメシアなるキリストご自身は、十字架が近づくに連れ、ご自分が「ダビデの子」であることを否定しようとされた。

◇ダビデの作である詩編110によると、ダビデはメシアを「わが主」と呼ぶ。だからメシアは「ダビデの主」であって「ダビデの子」ではないと主は言われる。ご自分はダビデよりも上位にあると言いたいのか。それは違うだろう。

◇ダビデは尊敬された王だが、サムエル下11章では、部下を戦死させてその妻を奪った。その罪を預言者ナタンに指摘され、神の前に深く悔い改めた。ダビデは弱さを抱えた人だった。

◇サムエル下15章でも、それが原因で三男アブサロムが父を憎み、反乱を起こす。ダビデは息子との戦いを嫌ってエルサレムを去る。「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った」(サム下15:30)。みじめな父親の姿である。主イエスはご自分がこんな弱い人間の子孫とは言われたくないと思ったのであろうか。これも違うだろう。

◇主イエスが十字架を負って歩まれたゴルゴタへの道は、同じ坂道を泣きながら歩んだダビデより、もっとみじめな「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」だった。しかも主が負われた十字架は、自らの罪と弱さのためではなく、すべての人間の罪の裁きを身代わりになって負われた十字架だったのだ。

◇これはダビデに出来ることではない。だからその点で主は「ダビデの子」と呼ばれるべきではない。「ダビデの子」でなければ何か。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という「神の子」にほかならない。「ダビデの子」でなく「神の子」だ。

◇私たちこそが、罪の中に苦悩する「ダビデの子」である。しかしこの私たちのために「神の子」が低くなり、私たちの「ヴィア・ドロローサ」を共に歩んで下さる。それを感謝し、主と共に、主に従う道を生涯たどってまいりたい。
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