2014/10/19 神学校日・伝道献身者奨励日礼拝
「祝福に支えられて」
コリントの信徒への手紙二9章1~8節
中野 実先生(東京神学大学教授)
◇私たちの人生には「自分を失い、自分を手放すような」場面がある。そんな「自分を失う」ような経験にむかって、私たちは一体何を用意できるのか?パウロによればそれは祝福である。
◇パウロの用いる「祝福」という言葉の原義は
「良い言葉」である。祝福においてすべてをなすということは、私たちが自分自身に対しても隣人に対しても、良い言葉を語るということである。しかし現実において私たちは祝福の「良い言葉」を持ち合わせていない。
◇しかし教会は「良い言葉」の学校であり、そこで私たちは「良い言葉」を学んで、身につけられる。教会を形作っている神の御言葉は「福音」であり私たちは神からの福音、「良い言葉」を教会の中で聴き、学び、少しずつではあるが私たち自身も良い言葉を語れる人間に創りかえられていく。
◇まず私たちが学ぶ「良い言葉」は神への賛美。さらに少しずつではあるが、他の人々に対する「良い言葉」をも学ぶ。しかし肝心なことは、何よりも神が語ってくださる祝福の言葉に耳を傾けることである。教会の礼拝は必ず祝祷で閉じられる。祝祷とは祝福の宣言である。祝祷において、神が私たちを祝福してくださっている事実を経験する。私たちは神から祝福を与えられてこの世での生活に帰ってゆく。そこには苦しみがあり、悲しみがあり、不安があり、憤ることもしばしばある。私たち自身のうちには祝福など見出しえない。まして隣人と分かち合えるような祝福を私たちは持ち合わせていない。しかし私たちは教会の礼拝で、神の祝福を御言葉を通して聞き取り、祈りを捧げ、讃美歌を口ずさむことで、良い言葉を学ぶことができる。そして礼拝の最後に「私の祝福を携えて、出ていきなさい」と神から言っていただける。
◇私たちの生活は、そんな神の祝福がにじみ出てくるような生活である。私たちの存在の最も深いところで神の祝福が私たちを支えている。イエス・キリストを死からよみがえらせ、また私たちをも、その復活の命にあずからせて下さる神の祝福が、私たちを必ず支えてくれることを信じて歩んでいこう。
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