礼拝説教


2014/11/30 待降節第1主日礼拝

「切り株から芽が」

エレミヤ書33:1~16
牧師 加藤真衣子

 
◇神がお語りになるのは「わたしたちの知らない理解を超えた大いなること(3節)」だ。今日私たちに与えられた神の奥義は「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる(15節)」ということだ。旧約ではイスラエルの歴史のことを1本の木にたとえることがある。旧約の出来事からイエスの誕生へと枝分かれする木。その「切り株」から芽が出るというのはどういうことか。

◇切り株の姿は「もう終わり」という様相だ。旧約に描かれるイスラエルは神に対する不信仰と裏切りの歴史の連続だ。そのツリーを神が切った。けれども終わりではなかった。その切り株から若い枝が芽吹く。死せる切り株となったところから新芽が出て若枝が育つ。御子イエスが新芽として切り株に生まれてくださるというのだ。

◇これは私たちひとりひとりの人生においても起こる。私たちもマリアのように、神の言葉を聴いて戸惑いを覚える。神を心に迎えることは、それまで自分の心を中心とする生き方を切り倒されることだからだ。イエスという「ひこばえ」が私に芽生えていただくためには、まず私の場所を占めている「最初の木」、人間的な想いと生き方は切り倒されねばならない。恵みをうけいれ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」との信仰を生きていく決断をしたい。

◇切り倒されたような経験(挫折、失敗、悲しみで手をついてしまったと思うこと)は私たちの理解を超えた、神の大いなる恵みの始まりだ。私たちの切り株にこそ、ひこばえである主はお生まれになる。クリスマスは闇の現実に光の主が介入してきたことだ。苦難にみちた私たちの生涯は、救い主のおられる生涯に本質的に変えられた。闇は光に勝つことは出来ない現実がもう始まっている。明けの明星が来たことで、夜はもう明け染めている。神の約束は私たちの死の陰の谷で実現される。

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