2015/2/15 −降誕節第8主日礼拝−
「ピスガに立つ」
申命記34:1〜12
主任牧師 大村 栄
◇出エジプトを導いたモーセは約束の地カナンを目前にして、ピスガの頂で死ぬ。無念だったろう。交読した詩編90は「神の人モーセの詩」。「3:あなたは人を塵に返し『人の子よ帰れ』と仰せになります。4:千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。…12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。
◇神が「人の子よ帰れ」と呼ばれる時と方法は予想できない。長短を問わず与えられた時間の中を、賜物を生かして、どれだけ精一杯生きたかが問われる。人間は生涯の「結果」を評価するが、神が尊ばれるのは「過程」だ。それが「生涯の日を正しく数える」ことのできる「知恵」である。神の目的のためにモーセの命は用いられ、天においてねぎらわれる。
◇モーセが約束の地に入れなかった理由はあるのか。民数記は彼が荒野のメリバで、神の「聖なることを示さなかった」(20:12)ためだと言うが、申命記は別の理由をあげる。それはイスラエルの民の不信仰のせいだ。神はモーセに偶像礼拝におちいった民の責任をとらせる。モーセの言葉、「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも…決してない」(4:21)。
◇モーセは、彼を含む民全体の不信仰の責任を、指導者として引き受けなければならないのだ。一人が全体の罪を負うことによって全体が救われる。「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)。このイザヤの預言は十字架の主イエス・キリストを指し示している。
◇モーセのピスガでの死は、キリストによって完成する贖い(身代わり)の信仰の先駆でもある。私たちもピスガに立つような、不条理やそれゆえの苦悩を経験する時に、キリストが傍らに共にいて下さることを覚えたい。
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