礼拝説教


2015/3/1 −受難節第2主日礼拝−

「神を呼ぼう」 

ローマの信徒への手紙10:5〜13
主任牧師 大村 栄

 
◇イスラエル人は「5:掟を守る人は掟によって生きる」(レビ記18:5の引用)と、律法の掟を守れば、神の義を得、神に喜ばれて豊かに生きられると信じた。だがその掟を完全に守れる者は誰もいない。人間は本質的に不完全なものだ。先週の中野実先生のヘブライ書13:8による説教に、「年をとるという事は、未完成のままに人生を受容するプロセスである」(先週講壇より)。

◇私たちはただイエス・キリストを見上げることによってのみ、完成を目指すことができる。それは手の届き難い所にあるのではない。「6:『だれが天に上るか』と言ってはならない」。天には誰も昇れないが、主ご自身が地に降りて下さり、人の子として生まれて下さった。

◇「7:『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」。主イエスは私たちのために死んで陰府というどん底まで降られ、そこから復活して、陰府に光りを注いでくださった。私たちは高くも低くもなれない者だが、私たちのそば近くにきて下さったキリストを心に迎えれば良いのである。「8:御言葉(キリスト)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。

◇それはすべての人に与えられる恵みだ。パウロは旧約を2箇所引用してそれを語る。「11:主を信じる者は、だれも失望することがない」(イザヤ書28:16)。さらに「13:主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル書3:5)。

◇呼び求めるとは、要求や要望をするのとは違う。何をどう願ったらいいのか分からない状況で、ただ主よ、とみ名を呼び求める者に、真の救いが与えられると聖書は約束しているのだ。

◇招詞の2テモテ2:11-12は新約聖書の時代の讃美歌だ。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」。

◇ユダヤ人は、キリストを否んだがゆえに、キリストに否まれた。私たちはキリストを否まずに受け入れ、何事もキリストと共に耐え忍び、常にキリストと共に生き、共に死に、最後にキリストの復活の勝利に与る者でありたい。
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