礼拝説教


2015/3/22 −受難節第5主日礼拝−

「降りていく生き方」 

マタイによる福音書20:17〜28
伝道師 堀川 樹

 
◇今日の箇所の21節では、キリストのもとにゼベダイの息子達の母親が「王座にお着きになるとき、この二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願っている。キリストが十字架にかかる直前に身勝手な願いをしたと思えるこの母は、実はキリストの十字架の死に際して最後まで見守り、ずっとキリストに従い、お世話をしてきた女性であった。(マタイ27:55,56)つまり、この21節の願いはキリストに従い、ひれ伏す中で、キリストから問われて吐露した他人事ではない私たち内にある願いなのである。

◇ヤコブとヨハネのみならず、他の弟子達もキリストが飲もうとしている苦しみの杯を王や高官たちが飲む喜びの杯と考え、栄光の座を求めていた。そんな彼らに向かって、キリストはその十字架の愛の中で語る。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、みなに仕えるものになり、いちばん上になりたい者はみなの僕になりなさい」(26,27節)と。

◇神の前での偉さについて、ある人が明治初期のキリスト者がこの世の暗黒面に立ち向かい社会事業や宗教を志す人の姿を通して、「底辺に向かう志」と語った。キリストはまさに底辺に向かって歩み続け、この世の憂い、生きる悩みを経験された。悲しむ者に寄り添い、病める者を癒し、罪人と共に歩み、最後は十字架の苦しみを受けてくださった。キリストは私たちを愛するが故に、低きに降り、僕となって、仕え、ご自分の命を捧げられたのである(28節)。

◇キリストの右と左に並ぶ高い地位を願ったヤコブとヨハネは、本当の偉さを知り、キリストのように僕として、福音宣教の生涯を歩んだ。私たちも礼拝という山で主に出会い、山を降り、それぞれの場所へと遣わされて行くのである。キリストによって示された降りていく生き方を実践するものでありたい。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com