2015/4/26 −復活節第4主日 礼拝−
「見えるという恵みに生きる」
ヨハネ福音書9章24〜34節
協力牧師 中野 実
◇教会は復活の共同体。教会は、死を滅ぼし、復活された主イエスが共に歩む共同体である。それ故、決して絶望することなく、死と絶望に支配されている世界に永遠の命と希望を告げ知らせる使命が与えられている。しかし、教会はなおも死と罪の脅かしの内を歩んでいる。思いがけない出来事に遭遇すれば、すぐに動揺してしまう。しかし罪と死の支配を恐れ、その現実から目を反らすのではない。教会はキリストの恵みの光に照らして罪と死に脅かされている自らの現実をしっかりと見据えることができる。
◇ヨハネ福音書9章全体は一つのドラマとなっている。主人公は生まれつき目の見えなかった男性で、一方的なイエスの恵みによって目が見えるようにされる。しかし思いがけない恵みの故に多くの葛藤を抱える事になる。自らが見ている現実をしっかりと見れば見る程、現実を正直に見ようとしない世界の価値観と戦わなければならなくなる。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(9:25)。
◇見えるようになる事は、自らの弱さ、人間のきたなさ、混乱した社会なども見ること。見える現実から目を反らさずしっかり見据える時、すなわち、神の御心に照らしながら見直す時、私たちの弱さ、きたない人間の現実、混乱した社会のただ中において力強く働き、すべてを新しく創り変えようとされる神のお姿を発見できる。
◇神の働きはあまりに自由で、私たちからすれば想定外の事ばかりかもしれない。私たちの父である神は、イエス・キリストの十字架と復活によって罪と死を滅ぼし、完全に行き詰まっていると思われる場所にも新しい可能性を開いてくださる方である。そんな神の御業をしっかりと見て、そこに参与するよう新しい一歩を踏み出す事こそ、私たちに今求められていることである。
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