礼拝説教

2015/5/10 -復活節第6主日 礼拝- 

「一粒の麦」

ヨハネによる福音書12:20~26
船本 弘毅先生

 ◇過越の祭はユダヤ三大祭の一つであり、出エジプトを記念する大切な祝日でしたから、イスラエルの人々は各地からエルサレムに上って来て、神殿参りをするのが習わしになっていました。その中にギリシア人がいたことに、ヨハネ福音書は注目します。 

◇新約聖書では、ギリシア人とは人種的な意味だけではなく、広くユダヤ人以外の民族の総称として用いられています。ヨハネはここにギリシア人を登場させることによって、イエス・キリストの十字架による救いは、救いから遠いとされている異邦人にも伸びて行くことを明確に示そうとしたのです。 

◇イエスの地上生活の最後の一週間には、さまざまな出来事がありました。共観福音書はその踏付けを克明に行っていますが、ヨハネ福音書は迫り来る十字架の時を前にして語られたイエスの言葉を書き残すことに集中しています。 

◇その最初に登場するのが「一粒の麦」のたとえでした。文語訳聖書では「人の子の栄光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦地に落ちて死なずばただ一つにて在らん。もし死なば多くの果を結ぶべし」と訳しています。「栄光の時」に続く言葉は勝利の宣言ではなく、十字架の死による救いの宣言でした。 

◇「わたしの時はまだ来ていない」(2:4,7:6参照)と語っておられたイエスは、今や自分の時が来た。そして人々にふみつけられ、新しい芽を出し、実りをもたらす一粒の麦のように、十字架の死によって、多くの者を生かし、永遠の生命に導くことを明らかにされ、その道を歩まれたのでした。 

◇地に落ちて死んだ一粒の麦が、多くの果を結ぶのはどこにおいてでしょうか。教会です。そして教会はイエスを主と信じ従うひとりひとりによって形成される信仰者の群です。阿佐ヶ谷教会は、今までも、今も、そしてこれからも、信仰と祈りの群れとして、主に従って歩むことが求められています。 


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