礼拝説教


2015/6/7 −聖霊降臨節第3主日礼拝−

「神の民の命」

使徒言行録2章37〜47節
牧師  大宮  溥

 
◇阿佐ヶ谷教会は昨年創立90年を記念して、神の民としての光栄と責任を自覚しつつ前進を始めたが、この度大村牧師の辞任によって羊飼いを失った羊の群れ のような、厳しい状態に置かれた。しかしわれわれプロテスタント教会はルターが説いたように「万人祭司」の教会であるから、この教会の全員が教会の担い手として祈って使命を果たし、次の教会体制への準備にあたりたいものである。

◇キリスト教会の誕生を告げる五旬祭の物語でそこに集まった人びとは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。ここに教会の基本的な姿が示されている。

◇教会は「使徒の教え」、すなわち「福音」によって生かされ、かつこれを宣べ伝えて生きる。初期の教会の成長は著名な説教家によったのではなく、奴隷や庶民の証しの生活を通してであったと言われている。

◇「相互の交わり」。コイノーニアは特に財の共有の面が強く、初代教会は原始共産制であった(44節)。早期再臨の期待が薄れるにつれて、これは解消していったが、彼らが教会を「神の家族」と考え、物心両面にわたって共に生きようとしたことは教会本来の姿を示している。

◇「パンを裂くこと」はやがて聖餐式になって行くが、教会はイエス・キリストと一体になり、「キリストの体」として、キリストの命によって生きるのである。

◇教会は「祈ることに熱心」である。出エジプト後のアマレクとの戦いで、モーセの手が上がるとイスラエルが勝利した(出エジプト記17章)。教会は祈りによって前進する。

◇エゼキエルが見た「死骨の谷」の復活の幻で肉体に神の霊が吹き入ると人びとの大群衆が立ち上がった(エゼキエル書37章)。教会は霊性の欠如した現代において、聖霊の息吹きの躍動する、信仰と希望と愛の共同体として生き、「見えるもの ではなく、見えないものに目を注」いで生きる。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com