礼拝説教

2015/7/12 -聖霊降臨節第8主日礼拝- 

「大いなるは主のまことぞ」

創世記15:7~21
副牧師 加藤真衣子

◇主の約束と命令を受けて旅だったアブラムだが、御言葉は一向に実現しない。「主の御旨と信じ、この道を歩み始めたのに、これは御旨ではなかったのではないか?」私たちの旅路は、御言葉と、自分の目に見える現実とのギャップに挟まれ、しばしば悩み苦しむ旅路だ。

◇アブラムが疑いや迷いを神に問いかけてゆく時、神は彼を外に連れ出し、満天の星を見せた(15:5)。自分のスケールを超えた神の大きなみ業に圧倒され「アブラムは主を信じた」(15:6)。私たちは自分の小さなものさしを捨て、遙かにまさる、大いなる主の救いのご計画に、この旅路を委ねてよいのだ。

◇神とアブラムとの契約が実際に結ばれたのは17節。「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」これは神が現れたことを指し、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎることによって、「もしこの契約を破るようなことがあれば、この動物のように裂かれても異存ない」と誓うのだ。そして18節、「主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』」

◇聖書で「土地」は命のシンボル。主は「あなたに命を与える」と約束されたのだ。組別一斉集会にあたり、それぞれの組の土地に私たちが加えられているのは、土地(命)の与え主である主の救いの中に加えられているということだ。

◇この契約において裂かれた動物の間を通り過ぎたのは神だけであり、そのときアブラハムは眠っていた(15:12)。神と人との契約は徹頭徹尾、一方的な恩寵だ。そして裂かれた動物の間を通り過ぎた神の愛は、独り子イエス・キリストを世に送り、そのお体が十字架の上で引き裂かれることをも引き受けて下さった。私たちがまだ神を愛さなかった時、神はすでに私たちを死に至るまでも愛して下さっていた。それほどまでに大きな愛に生かされている幸いを感謝し主に仕えていく道へと送り出されていこう。


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