礼拝説教


2015/9/13 −聖霊降臨節第16主日−

「愛すること、生きること」

コロサイの信徒への手紙3:12〜17
副牧師 加藤真衣子

 
◇聖書は人間が人間らしく生きるためには愛することが不可欠だと言う。私たち は愛を呼吸するときに、霊的に生きることができる。なぜなら人はもと もと愛 なる神の似姿(創世記1:26)として造られたからだ。愛することを本質として持 つ神に似たものとして造られた。しかし私たちは罪のため に、神と隣人との愛 の交わりが破れ、愛したいのに愛せない、生きているけど心は死んでいるという 自己矛盾を抱えている。そんな私たちの重荷を神は 放っておかれない。

◇「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(12節)と言われる が、それを可能にする根拠がある。それは「古い人をその行いと 共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」(9,10節)いるからだ という。私たちの罪と死は、主の十字架の死とと もに滅ぼされた。そして私た ちは、復活された主を上から着るように「新しい人を身に着け」るようにされた (10節)のだ。

◇身に着けよという「愛」は「アガペー」。つまり私たちの中から湧き上がるも のでなく、与えられるものだ。感情においては相手に不満や怒りを覚え ても、 それらを主によって十字架につけていただき、主のアガペーを身に着けさせてい ただき「この人と関わって行こう」と決断していくのだ。

◇「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるき ずなです。」(14節)。徳目の中で比較すると愛が一番というのでは なく、全て をまとめるものが愛だ。帯がなければ着物が全てほどけてしまうように、愛なく しては全ては無意味になる。

◇慈しみ深い愛なる主は、私たちからずっと遠くにおられて、「愛を自らの努力 で獲得せよ」とはおっしゃらない。主は低きに降り、私たちの内に宿っ てくだ さる。私たちは主のいのちの犠牲を伴う愛によって、新しく創造されたものなの だ。主の愛に裏打ちされて、愛することを生きることとしていこ う。



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