2016/3/6ー受難節第4主日礼拝ー
「十字架の勝利」
ヨハネによる福音書12:20〜36a
牧師大宮溥
◇主イエスの御生涯の終わりが近くなった頃、エルサレム神殿での祭に、何人かのギリシア人が参加して、主との面会を求めた。旧約の民であったユダヤ人だけでなく、世界が主イエスのもとに来たのである。そのとき主は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われた。主が、地上の闇の中に置かれていた人類を、天の輝きの世界へと連れて昇るときだと言われたのである。世界の救いのため十字架につくときである。
◇主イエスは十字架の死を「一粒の麦」のたとえで教えられた。人間が自分の内にこもって、孤立して生きるならば、その人生は死と共に終わる。しかし人が他者を愛して、彼の内に愛を注ぎ、自分の力を与え、自分を彼らに差し出すならば、彼のまわりに愛の共同体ができ、多くの人が共に生きる。
◇主イエスは、神の子が人間になられることによって、人間と一体になり、他者の身代わりになってその罪と滅びを引き受け、ご自分の愛といのちを人間に与えるという、神と人間との完全な連帯を成し遂げられた。
◇「今、わたしは心騒ぐ」とは、ゲッセマネの園での苦悩が表現されている。キリストはそれまで経験したことのない、暗く底知れぬ深淵に突き落とされて、もがいても支えがない状態に陥られた。しかしその中で、このような放棄が父なる神の御心であると悟られた。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と、覚悟して深淵をくぐり抜ける決意をされた。
◇これは人間イエスの経験としては、罪と滅びのどん底に落ちることであったが、神の側からみると、地下に下ったイエスが、滅びのどん底から人々を担って天へ、神の許に昇る道であった。こうして神の栄光が現れたのである。
◇「わたしは地上からあげられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」。この約束のもとに主イエスは、この救いの御手を、今受け止めるように、信仰の応答を求められる。神との出会いの時を逃してはならない。
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