2016/3/20 ー棕櫚の主日ー
「ろばの子に乗るまことの王」
ヨハネ福音書12:12〜19
牧 師 堀川 樹
◇受難週にはそれぞれの教会で特別な集会が守られる。それは主イエスが歩まれた受難の出来事を通して、私たちの罪とその赦しを心に留めるためである。
◇受難週の始めの日は棕櫚の主日と言われる。これは群衆たちが総出で、なつめやし(棕櫚)の枝を持って、主イエスを王としてエルサレムに迎え入れたところに由来する。主イエスの奇跡を目の当たりにした群衆たちは、この方こそローマ帝国の支配から解放してくれる王として期待をしていた。しかしこの群衆は6日の後には主イエスを「十字架につけろ」と叫んだことを私たちは聖書を通して知っている。
◇主イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入場された。体も大きく、早く走ることのできる立派な馬ではなく、ろばの子に乗っての入場。群衆のイメージからすればあまりに格好悪い王として、また力強さのかけらも感じられない王として来られたのである。この主イエスのお姿は旧約聖書のゼカリア書9章に記されており、御言葉の成就であった。
◇しかし16節によれば普段から教えを受け、奇跡を見ていた弟子たちでさえ、理解することはできず、時が来なければ神さまの御心が分からなかった。目が開かれたのは主イエスが十字架にかかり、復活された時。主イエスは十字架という最も悲惨な死を通して、私たちに自分こそがまことの王であることを示したのである。
◇私たちはどうしたらまことの王として主イエスをお迎えすることができるのだろうか。それは自分の心の玉座に座っていただくほかにはない。主イエスは武力によってではなく、ただ御言葉によって私たちを触れてくださるお方である。私たちは御言葉に支配されているキリストの兵士。受難週の時こそ、御言葉に静かに聞く時として過ごしたい。私たちに語りかけて下さるまことの王は、一歩一歩十字架への道を歩まれている。ただ私たちの罪を赦すために。そこにこそ私たちの救いがあり、喜びがある。
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