礼拝説教

2016/4/17 −復活節第4主日礼拝−

「神の民の羊飼い」

ヨハネによる福音書21:15〜25
牧師 大宮 溥


◇復活の主イエス・キリストによって召し出された最初のキリスト教会は、使徒によって導かれた。われわれは万人祭司の教会として、全員が使徒としての使命に召されている。

◇初代教会における使徒の筆頭はシモン・ペトロであった。しかしペトロ自身には、自分がこのような指導者の地位に立つのにふさわしいのかという、深刻な疑問があった。それは主が十字架につけられるために捕縛されたとき、3度まで主を知らないと否認し、裏切ったからである。

◇今日の物語は、客観的な情景を示すというよりも、ペトロの心の中でペトロの良心が感じていた疑問とそれに対する主イエスの対応を示しているように思われる。主を裏切ったという自責の念に駆られているペトロのところに、主イエスは誰よりも先だって現れて呼びかけられた。敵のような自分に対する、この主の燃える愛に触れたとき、彼は心から感動し、自分も愛を燃やして主に従ったのである。主は彼が最後には殉教の死を遂げるであろうと予言された。

◇それに対してもう一人の使徒である「イエスの愛しておられた弟子」のヨハネは、長命な生涯を与えられ、晩年はエフェソの教会で礼拝に集う人々に短い祝福を与えるだけであったが、人々はそれだけで喜びに満たされたという。彼は再臨の主に出会うまで死なない(「生きている」は、15章のぶどうの枝のたとえでは「つながる」と訳されている、深いつながりを表す言葉)と噂されたが、平安な死を迎えた。

◇教会の「羊飼い」が、与えられた使命を果たす態度は、それぞれに異なっている。第2次大戦後に公民権運動で殉教の死を遂げたキング牧師のような道もあったが、戦時中の空襲の最中、詩編118編の不死の約束を聞いて、戦後の日本伝道に挺身された大村勇牧師のような道もあった。われわれも、自分の道で主が招き、召しておられる道を進みたいものである。

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