礼拝説教

2016/6/12

「まことの礼拝」

ヨハネによる福音書4:5〜26
牧師 大宮  溥



◇主イエスは旅の途中でサマリアのシカルの町に立ち寄り、「旅に疲れて井戸のそばに座っておられた」。キリストは神の子であったけれども、人間となられ、人間としての労苦をわれわれと同じように経験され、連帯される。

◇一人のサマリアの女が正午近くに水を汲みに来た。近隣の人と交われない、身持ちの良くない人であろう。この女に主イエスは水を求められた。宗教的差異を退け、しかも異性との仕切りを主イエスは乗り越えられる。

◇不審に思う女に主は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また(わたしが)だれであるかを知っていたならば、…」彼女のほうから「生きた水」を求めたであろうと言われた。「生きた水」には①流れる水、②霊的な命の流れ、という二つの意味がある。主は表面的な①の意味にとった女を目ざませるために、彼女の罪に崩れた家庭生活を指摘された。

◇女は主が霊的な洞察力を持つ「預言者」であることに気づき、罪の赦しを与えられる生ける神との礼拝の場所を訊ねた。主は、真の礼拝は場所の問題ではなく、「霊と真理をもって父を礼拝する」ことであると教えられた。女がそれを与えてくれる「キリストと呼ばれるメシア」(救い主)について語ったとき、主イエスは「それは、あなたと話しているこのわたしである」と答えられた。

◇「わたしである」(I AM)という言葉は、モーセに示された神の名である(出エジプト3:14)。この生ける神がサマリアの女にも出会ってくださったのである。彼女の罪をご自分の身に引き受け、彼女の内に生きた水である聖霊を湧き出させ、神の民の一員として生きる者としてくださった。

◇この主イエスは、今ここで礼拝しているわれわれのところにも来られ、われわれにも出会ってくださる。使徒パウロも礼拝に集うたコリントの人々に、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントⅡ6:2)」と告げた。
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com