2017/02/26
「洗礼−死んで生きる」- 降誕節第10主日礼拝 -
マタイ福音書9:1〜13
協力牧師 中野 実br>
◇聖書によれば、神によって創られたものは皆、良いものである。しかし同時に、人間が本来良いものとして創られたにもかかわらず、罪に陥り、本来の自分を失っている事実を聖書は告げる。それ故、ありのままの自分であることより、むしろ本来の自分を回復することこそが我々の緊急課題なのである。
◇しかし、我々は自分の力で本来の自分を回復する事はできない。ただ神の御子イエスによって、神の子である本来の自分を回復することができる。洗礼を授けられ、キリスト者(=キリストのもの)としてキリストと共に人生を歩む。そこに本来の自分を回復した人間らしい生き方がある。
◇本日の御言葉が示しているように、洗礼は全身を水に沈められ、そこで一度死んで、再びそこから引き上げられることである。我々に洗礼が授けられた時、古い自分はキリストと共に死んでしまった。それはキリストと共に復活して永遠の命へと導かれるためである。イエスは言われた。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。我々は、人生において様々な形で死と呼ぶべき経験を繰り返す。しかし、それらの経験の根底に、我々の洗礼の事実がある。我々はキリストと共に死んで、キリストと一つにされている。それは、我々がキリストと共に立ち上がり、豊かに実を実らせるためである。
◇マルチン・ルターは次のように言う。「我々は自分の罪、自分の良心に悩まされるような時には、自ら元気づけ、慰めて、こう言うべきである。『それでも、なお、私は洗礼を受けているのだ。そしていやしくも洗礼を受けている以上、私が救われて、魂においても、体においても、永遠の命を与えられていることは、私に約束されているのだ』と」(『大教理問答』より)。「それでも、なお、私は洗礼を受けているのだ」との言葉を心に刻みつけながら、歩んでいこう。
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