礼拝説教

2017/03/26

「自由と十字架」- 受難節第4主日礼拝 -

コリントの信徒への手紙一8:1〜13
協力牧師 中野  実



◇私たちの歩み、教会の歩みには常に問題や課題がつきまとっている。しかし神は私たちにそれらを担う力を与えてくださっている。第一コリント10:13を参照。

◇本日の聖書箇所は「偶像に供えられた肉」に関する御言葉である。それをめぐって混乱がコリント教会に生じていた。信仰的に強い者たちは、キリストから与えられている自由を大胆に行使し、偶像に供えられた肉を食べる事に何の問題も感じなかった。しかし、信仰的に弱い者たちは彼らの自由な行動について行けず、動揺し、再び偶像を恐れる歩みへ舞い戻ってしまった。そんな様子を見聞きしたパウロは、キリストから与えられている自由をどう用いるかに関して、コリント教会の人々に助言を与えている。

◇キリストを信じて生きるとは、自由において生きることである。しかし肝心な点はその自由をどのように用いるかである。パウロがキリスト者の自由について考える際、常に念頭においていたのはキリストの十字架である。神と等しい方であるにもかかわらず、へりくだって人となられた方。私たちのために心を騒がし、苦しまれた方。その十字架の主と共に歩み、その御姿と同じ姿に変えられていくことこそ、私たちの歩みである。信仰の歩みには悩みがつきまとう。しかし、それでよい。なぜなら、キリストもまた深く苦悩されたからである。教会の歩みには無駄な事も多い。しかしそれでよい。キリストの歩みもそうであったからである。信仰の歩みは弱さに留まる歩みである。しかしそれでよい。キリストもまたそのよう に弱くなってくださったからである。信仰の歩みには近道はなく、遠回りする事の多い歩みである。主イエスの十字架の歩みがそうだったからである。無駄が多く、悩みに満ち、弱く、遠回りばかりしている歩みこそが、私たちの信仰の歩み、教会の歩みである。私たちがそのようなことのために召され、自由をそのような歩みのために用いるのである。



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