礼拝説教

2017/04/09 −棕櫚の主日礼拝−

「死によって現わされる栄光」

ヨハネによる福音書12:27〜36a
主任牧師 古屋 治雄



◇主イエスはゼカリヤ書9章9節の預言の言葉を知っておられ、ご自分の一番大事な十字架に向かう歩みの集大成としてエルサレムにお入りになりました。群衆は自分たちの期待を込めてまさしく高らかに勝利の凱旋をする王様として主イエスを迎えました。ファリサイ派の指導者たちは群衆のこの歓迎を冷ややかに見ていましたが、やはり主イエスを自分たちの立場を脅かす王的な存在と受け止めていたことがわかります。

◇しかし主イエスのエルサレム入城の出来事は、普通私たちが想像する凱旋行進ではありませんでした。主イエスは、柔和と謙遜を示し、戦車や軍馬を絶ち、諸国の民に平和を告げる王として、力を誇示する軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って入られました。

◇そのエルサレムで主イエスは何をなさろうとされたのでしょうか。「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)とお語りになり、それは「御自分がどのような死を遂げるかを示」(33節)すためでした。人々の力ある王として人々の期待に添うのではなく、死に向かって、この一点に向かってエルサレムに入られたのです。

◇このことは誰からも理解されることはありませんでした。主イエスの一番近くにいた弟子たちでさえそうでした。主イエスの御苦しみはいかばかりであったでしょうか。私たちにとって一番大切にしていることがもしも誰からも理解されていないならば、とても耐えられません。主イエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』」(27節)と祈られました。

◇しかし主イエスは、神の御子としての全存在を賭けて向かってくださったこの死を指して言われました、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)と。主イエスが十字架の死を遂げられることによって私たち地上に生きる者すべてを御自分のもとに引き寄せてくださること、この一点にその目的が向けられているのです。私たちの救いがここにはっきり示されています。

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