礼拝説教

2017/04/30

「望みを断たれた道で」

ヨルカによる福音書24:13〜35
副牧師 加藤真衣子



◇主イエスの二人の弟子はエマオという村へ向かって歩いていた。悲しい出来事について語り合いながら、望みを断たれて道を歩いていた。自分たちの見て来た「一切の出来事」を思い出しながら。彼らの歩く道に、主が近づかれた。道すがら、嘆き語るクレオパ。主はこれをずっと聴いておられた。そして今度は主が語り始めたのだ。クレオパが話した金曜日からの出来事を別の角度から主が語り始めた。

◇クレオパたちの悲しみの3日間の出来事を、主は千年以上前のモーセにまで関連付けて話された。クレオパも主も、金曜日から日曜日を、同じ場所で体験していた。しかし二人の話は違っていた。クレオパたちは主の話を通して、始めて自分の人生に神の物語が隠されていることを知った。 ◇誰にでも悲しい金曜日からの3日間がある。

私たちは目の前の現実がすべての結果であるかのように、過去形で歩いている。しかし主は私たちの過去の思い出の中に残ることを望まれなかった。私たちが今日生きる現実の中を、共に歩くことを望まれておられる。主は過去形の方として記憶されるのではない。罪人と共に、今も、明日も、そしてその先も、死を超えて共に生きてくださる。そして時にかなって、主ご自身が、私たちの旅路の秘められた意味をお語りくださる。私たちの身に起こっていたことを、天国の文脈で語り直してくださる。聖書の物語の中に私たちの生涯の道は組み込まれているのだ。聖書全体にわたる神の祝福の中に、私たちは一人の例外もなく置かれている。

◇クレオパたちも、私たちも、エマオへ向かう道しか見ていない。しかし主は、エマオからなおも先へと行こうとされる。主は私たちの「終わり」の、なおその先を、ご覧になっておられる。そして、そこへと導いてくださる。私たちのエマオは、終わりの場所ではなく、主の復活の力を知って新しく生き始める出発の場所だ。御言葉によって心燃やされつつ、歩もう。

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