礼拝説教

2017/8/6

「力を捨てられるか」
−平和聖日礼拝−

詩編46:1〜12
  牧師 古屋 治雄



◇今朝、平和聖日として主の日が与えられています。そして今朝の御言葉として旧約聖書詩編46編が与えられています。この詩編は、王国時代、国の存亡に係わる重要な情勢下で王も民も動揺している中、預言者的な信仰を与えられた信仰者が神様に信頼の告白を歌っている詩編です。どんなに巨大な力が自分たちを脅かしていても、万軍の主が共にいてくださり、ヤコブの神が自分たちの砦の塔になっていてくださることを確信し、信頼して歌っています。

◇11節をみると、「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と言われています。口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、文語訳では「汝ら静まりて我の神たるを知れ」と訳されています。これらの関連から、静まることは力を捨てることであり、逆に、私たちが自分の力を捨てる時、初めて真に神の言葉を聞き、受け入れることができると知らされます。

◇11節に先立って、9節の言葉が語られています。「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される」そしてこの主は、様々な勢力争いがひしめき合う地上でその力を発揮してくださり「戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」(10節)のです。この詩編に示されている「静まること」は消極的な静観主義を語っているのではありません。そうではなく、神の力に信頼する積極性からの御言葉です。私たちの神様は、神以外の力がうごめく中に私たちを放置される神様ではありません。神様の恵みの御支配を実現してくださるために徹底して働いてくださいます。そのことに私たちが気づかされると、私たちは自分の力を捨て去ることができるのです。

◇旧約時代の信仰者たちがはっきりと見、知ることができなかった、「神様の成し遂げられたこと」を私たちは見、そして知っています。イエス・キリストが神様の力を私たちに顕してくださったからです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教えてくださった主イエスが、御国を来たらせてくださいました。私たちもこの主に信頼して、力を捨て、到来する御国に向って生きる者となりましょう。

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