2017/09/17
「いのちを回復してくださる主イエス」
マルコによる福音書3:1〜6
牧師 古屋 治雄
◇マルコ2章末からこの3章冒頭に主イエスが登場された当時のユダヤ社会で人々がどのように安息日を過ごしていたのかを垣間見ることができます。十戒の安息日規定などから仕事をしてはならないという禁止事項が日々の生活の中に強調され、そもそもの趣旨が見失われていたと言わざるを得ません。主イエスは安息日規定によって人々ががんじがらめになっているところから解放してくださるために、大胆にまた挑戦的に働いてくださいました。
◇指導者たちは、一方で主イエスが始められた新しい宣教の言葉と行動に惹かれながらも、これまで連綿と大切に守られてきたユダヤ社会の伝統を破壊する者として告発しています。その意気込みたるや常軌を逸していると言わざるを得ません。
◇ある安息日、会堂に片手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人々は、主イエスがこの人に安息日に禁止されている働きかけをするかも知れないと窺っていました。マタイ福音書ではこれらの人々がはっきり主イエスに言葉で質問している様子が伝えられていますが、マルコ福音書ではそういう言葉はありません。主イエスはここでそのような目には見えない緊迫した空気を見抜いておられ、そのような敵意にはっきりと対応しておられることが強調されています。
◇そして安息日というと、しないこと、してはいけないことが圧倒的に重要視されていたただ中に対し、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」(4節)と、為すべきこと、行動することを不可避的に提起されました。主イエスはこの場面の直前で言われました、「だから、人の子は安息日の主でもある」と(2:28)。これらの言葉の中に主イエス御自身のご決意が表明されています。
◇十戒の安息日規定で禁止規定の前に、民の為すべきこととして「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられていました。主イエスは人の子として自らの命を捧げ、私たちが神を聖なる方と受けとめ、その霊的な安息に与ることができるように道を切り開いてくださいました。
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