礼拝説教

2017/11/19ー降誕前第6主日ー

「すべてのことを照らし出す灯」

マルコによる福音書4:21〜25
  牧師 古屋 治雄 



◇主イエスはともし火のたとえをお語りになりました。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下におくためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と。これを聞いていた群衆の誰もが、そんなことは分かりきっている、当たり前だと思ったことでしょう。当時のともし火はとても貴重で、また現在の私たちからするとずっとほの暗い灯りでした。限られた灯りをいかに効果的に使うかよく心得ていました。

◇マタイでは主イエスがともし火を「あなたがたは世の光である」(5:14)と、福音に生きる者への勧告としてお語りになりましたが、このマルコでは、前の種蒔きのたとえと同様に、御言葉の輝きの力を指しています。そしてともし火のことに平行して三つの一般的なことわざと結びつけてお語りになりました。

◇第一番目は22節にある「隠れているもので、あらわにならないものはなく、・・・」との言葉です。主イエスによってもたらされた御言葉はほの暗い灯りのように受けとめられても、この世界に起こっていることが神の前に明らかにされます。ルカではファリサイ派の偽善を暴き出す文脈でこの言葉が語られていますが、マルコではむしろ御言葉が発せられることを歓迎し、そこに生きる信仰者たちに喜びと信頼が生まれてくることが語られています

◇第二番目の結びつけは24節、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」です。この言葉も本来はともし火のこととは直接関係していないことわざです。しかし主イエスは積極的に御言葉を信頼する者には、その信頼に不相応に思えるほどの恵みが与えられることを約束されています。

◇第三番目の結びつけは25節、「持っている人には更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。最後の取りあげられる、との指摘が気になりますが、御言葉への信頼が御言葉自身によって確かなものされることが言われているのです。

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