礼拝説教

2017/11/26ー謝恩日礼拝ー

「主を待つともしび、心に灯して」

マタイによる福音書25:1〜13
  牧師 加藤真衣子 



◇花婿の到着を、ともし火を持って待っていた十人のおとめは、私たちのことを指している。人は皆、待っている。生きているということは待っているということなのだ。主が再びいらして、救いが完成する祝いの日を。私たちが主を信じて生きるということは、いつも二つの国に生きているということを忘れてはならない。一つはやがて完成する神の国。もう一つは今ある地上の国。この二つは別々のものでなく互いに入り組んでいる。どちらか一方に固執すると、私たちの生き方は立ち行かなくなってしまう。永遠の神の国への眼差しを忘れて、地上の事柄だけに執着すると、魂の呼吸ができなくなる。逆に地上の事柄を忘れて、永遠の事柄だけに逃避すれば、この世の責任を果たせなくなる。では、どう生きればよいのか。

◇地上に足をしっかりと置きつつ、天をまなざしつつ、地上のことに動かされないで生きるのだ。永遠の神の国を、今すでに垣間見ているという確信に生きるのだ。そのために信仰のともし火を灯す必要がある。地上を生きている限り困難や悲しみがある。今は夜だからだ。ともし火は祈りだ。どんなに暗く見える時も、神の朝が明けることを信じて、祈って前に向かおう。暗闇に負けて祈らなくなったら歩けなくなる。祈る人は、暗闇の中に道を見つける。

◇十人のおとめは全員ともし火を灯し、花婿がくるのを待っていた。そして十人とも眠ってしまった。外見的には、両者に違いはない。唯一の違いは、油を用意していたか、していなかったかだ。この油は目に見えない。しかしこの油こそ、再臨の主を待つ生き方に関係がある。見えない油を用意して生きるというのは、まだ見ないものを見、まだ完成していないものを信じて生きることだ。

◇私たちの弱さゆえに、ともし火が消えかかる時も、尽きることのない、上から与えられる油を補給しながら生きよう。主は私たちが賢いおとめとして生きられるよう、ご自身のすべてを注ぎだしてくださった。恵みにお応えしよう。

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