礼拝説教

2018/3/25

「わたしはひとりではない」  -棕櫚の主日礼拝-

ルカによる福音書23:32〜43
牧師 加藤 真衣子
 

◇ルカ福音書では十字架につけられる主を先頭に、だんだんと人が加わっていく様子を語る。私たちの地上の行進は、目に見えるところでは十字架へ、死へと向かっている行進のようだ。しかしそれは主が先頭を行かれる行進だ。そこから本当の始まりが与えられる行進なのだ。

◇鞭で打たれ、十字架を担いで運ばされ、釘を打たれ、嘲りと苦痛の中で亡くなっていく主。これが救い主の姿なのか。そのような問いの中、主は十字架上で祈られた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』

◇わたしたちは、自分が何をしているのか、そして今何が起こっているのかを知らない。主が十字架にかけられたのは、わたしたちが打ち勝つことの出来ない罪と死を、主が担って打ち勝ってくださるためだ。主はそれほどまでに、塵に過ぎないわたしたちを愛してくださっている。主は、塵に過ぎないわたしたちを神の子とするため、御自分が塵と同じ者となられた。

◇わたしたちが弱いときにこそ、主にあって強くせられるため。私たちが八方ふさがりの時、上を見上げることができるため。大切な人を天に送らねばならないわたしたちのため。死を終わりにせず、御国の再会を約束するため。主は、御自身を与え尽くされた。この方こそ、まことの救い主だ。

◇共に十字架につけられた犯罪人に、主は言葉を届けられた。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。天国でやっと幸せになれるのではない。天国での大きな幸せは当然。そこにはもう、苦しみも悲しみも、別れも労苦もない。主は、わたしたちの現実に、共にいるとおっしゃる。だからどんなに弱い時も、どんなに試練の時も、いつかこの体が死の時を迎える時も、わたしはひとりではない。そしてわたしたちはもはや、単なる塵ではなく、主によって愛される神の子なのだ。

◇主と共にある楽園は、信仰の目で見つめるもの。礼拝は楽園を垣間見るときだ。目に見える地上にありながら、見えない楽園を見つめよう。主はわたしたちのために、復活してくださる。

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