礼拝説教

2018/4/1

「恐れながらも大いに喜び」  -復活祭礼拝-

マタイによる福音書28:1〜10
牧師 古屋 治雄
 

◇教会の歴史はイエスの復活が出発であり、婦人たちや弟子たちがよみがえりのイエスと出会ったことは歴史的な事実です。彼らは破れを抱えていたけれど、苦労して証言しました。墓の扉が開いていて、中は空でした。ここに本当の意味があります。これを伝える役割は、私たちにも負わされています。

◇イエスの働きや言葉を伝えることはやさしいでしょう。しかし、復活を伝えることは難しいのです。主に出会ったパウロも、アテネでは受け入れられていません。「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のです(使徒17:32)。使徒たちでさえ、はじめは「たわ言」に思われました(ルカ24:11)。

◇マタイは、ただならぬことが起こったことを伝えています。大きな地震が起こったのです。天使は、「かねて言われたとおり、復活なさった」と伝え、3つの命令をしました。「恐れることはない」、「遺体の置いてあった場所を見なさい」、「私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」。

◇婦人たちは恐れていました。しかし、その恐れは、主イエスが十字架で死んで葬られた出来事は、当事者たちがそれぞれ振る舞ったことを超えて、神が御子においてそのようになさったことと気づかされたからです。

◇それゆえに、恐れていても大いに喜んだのです。矛盾しています。喜びの心が与えられました。婦人たちは、葬られた場所が空であることを確認していません。けれど、さっそく、弟子たちに伝えようとします。このように大きな壁を打ち破ることは、人にできないことです。聖霊の働きです。そして、彼女たちはよみがえりの主と出会ったのです。

◇よみがえりの主は私たちをも変えて下さいます。これによって私たちは生かされています。よみがえりの主は、神に顔向けできないような私たちを「平安あれ」と迎えて下さるのです。     

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