礼拝説教

2018/6/3

「癒やしの奇跡を熱望する民」

マルコによる福音書7:31〜37
 牧師 古屋 治雄
 

◇私たちの教会では部会などの交わりを通じ、相互に祈りあっている。時にその祈りが聞かれていないのではないか、と感じられることもあるかもしれない。しかし、神様は、私たちの祈りと願いを聞いていて下さり、働いていて下さる神様である。

◇ガリラヤに来られたイエス様の御前に、「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来」た人々がいたと今日の箇所は伝える。人々は、不自由を抱えたこの人の上に、イエス様のお働きが注がれるようにというひたむきな思いを持っていたのである。

◇イエス様はその思いに応えて下さった。身体の不自由は、その人が神様から受ける罰であるとみなされていたこの時代にあって、イエス様は、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触られた。」それは、イエス様が、この人と一体になって、その苦しみを受け止めて下さったことを意味する。

◇そしてイエス様は「開け」と言われた。これは復活の主が弟子たちの心を開かれた場面でも用いられる言葉であり、罪の赦しと、神との新しい関係を告げる言葉である。

◇しかし、この奇跡の、不思議さを喜ぶだけでは、自分たちの期待によってイエス様のお働きを見ているのであり、イエス様の御心を深く受け止めたことにはならない。イエス様は、この奇跡の不思議さだけが一人歩きすることをお望みにはならず、このことを誰にも話してはならないと人々にお命じになった。

◇そして、続くマルコ8章で主は受難を予告されるのであり、この十字架に向かわれるイエス様を受け止める心が私たちに問われている。神様によって罪赦され、私たち自身が罪に気づくとき、初めてイエス様のお働きの全貌が私たちに見えてくるのである。

◇イエス様の御思いに気づくことのできない私たちに、イエス様は働きかけて下さり、神の子として生きる道を備えて下さった。私たちはそのイエス様の御思いをしっかり受け止めたい。

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