礼拝説教

2018/7/8

「よく見えるようにして下さる主」ー聖霊降臨節第8主日礼拝ー

マルコによる福音書8:22〜26
 牧師 古屋 治雄
 

◇私達にとって、褒められることは受け入れやすいが、叱られることを良き事として受け止めることは難しいことである。マルコ福音書は8章に至って、イエスさまが弟子たちをお叱りになる場面を多く伝えており、今日のベトサイダでの盲人の癒しの奇跡は、その中に位置づけられている。。

◇「見える」ということは、単に視覚的な問題ではなく、理解する心をもって、しっかりと受け止めるということを意味している。この場面には直接弟子たちは登場しないが、そこには、この奇跡を弟子たちも深い関心を持って受け止めてほしいというイエス様の御心があったと思われる。。

◇ひとりの盲人がイエス様のもとに連れてこられた。目が見えないということは、人々のコミュニケーションの中に自分を位置づけることを困難にし、更に当時の社会においては、心にも大きな重荷を負わねばならない事柄であった。イエス様はその事情を察知され、直ちに対応された。イエス様のお力が働き、まずはおぼろげに、そしてはっきりと、視力が回復したのである。。

◇段階的に視力が回復したことは、この奇跡の特色である。それはイエス様の決定的なお力が、持続的に働き、段階的にその人のうちに定着するということを意味している。。

◇私たちは、恵みの圧倒的な出来事を体験していながら、さまざまな出来事の中ですぐにそのことを忘れ、繰り返しイエス様のお叱りを受けねばならないものたちである。私たちの信仰生活は時に、堂々巡りするように見えることもある。。

◇けれども、教会生活の中で、繰り返し御言葉を通じて、イエス様は私たちのうちに持続的・段階的に働いてくださり、私たちをより確かに恵みのうちに立たせてくださり、「義の実を結ぶ」歩みへと導いてくださるのである。。

◇私たちをよく見えるようにして下さる主に、お応えする教会になりたい。

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