2018/7/29
「自分を捨てることができるか」ー聖霊降臨節第11主日礼拝ー
マルコによる福音書8:31〜9:1
牧師 古屋 治雄
◇「あなたは、メシアです」というペテロの告白を受け、主は、「メシア」すなわち「人の子」が、苦しみを受け、排斥され、殺され、三日の後に復活するということを予告された。
◇これは弟子たちにとって、受け止めることのできない言葉であった。彼らは、神に逆らう勢力を蹴散らす力ある王としてのメシアを期待していたからである。そこでペテロは、主を脇へお連れし、いさめたのである。
◇ペテロの行動は私たちも理解できる。私たちにも主への期待があるからである。しかし、「重荷を負うものはわたしのところに来なさい」と私たちを招く主は、同時に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とお命じになる。この御言葉を無にした福音理解はありえない。
◇では、私たちに「自分を捨てることができるか」と問われれば、それは無理だと答えざるを得ない。私たちには自分本位の思いがどこまでも付きまとうのである。
◇しかし、主はそのことをご存知である。主はペテロに向かい「サタン、引き下がれ」と叱責されたが、この叱責によって主は、わたしたちを支配するサタンの力に戦いを挑まれ、自分を捨てられない私たちに介入してくださるのである。
◇そのことを完成されるために、主は十字架で死なれた。私たちが自分中心にしか生きられなくする力を、主がすべて引き受けてくださった。そして、復活され、もはや死が、私たちを支配する最終的な力ではなく、到来する神の国の内に、主の言葉に従うものが神の力によって保たれることを示してくださったのである。
◇自分を捨てられない現実との戦いは続く。しかし主がその責任を引き受けてくださる。私たちは礼拝で、赦しの御言葉を聴き、恵みの御支配の中に確かに入れられていることを確信させられる。その希望に結ばれたものとして、確信と感謝を持って、それぞれの役割に徹してゆきたい。
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