礼拝説教

2018/8/12

「無力さを突きつけられるとき」ー聖霊降臨節第13主日礼拝ー

マルコによる福音書9:14〜29
 牧師 古屋 治雄
 

◇山上の変貌で3人の弟子はイエスが神秘的な輝きの中におられるのを見て我を忘れるほど動転するとともに、死者が復活することはどういうことかと論じ合った。イエスから聞いた「栄光に包まれる」ということを受け止め切れていなかったからである。

◇イエスと3人の弟子が降りてきたとき、残りの弟子たちがユダヤの指導者たち、群衆と論じ合っていた。イエスは「なんと信仰のない時代なのか・・・」と叱責されたが、これは残された弟子たちだけに言われたのではなく、この言葉は群衆やユダヤ指導者たちにも向けられている。

◇神の御子が人となって遣わされ、神の支配が始まる、いやすでに始まっているのに弟子たちを始め人々が「論じ合っている」ことが記されている。自己防衛、攻撃、言い訳はすべて論じ合うことに向かう。

◇一番重要なのは、ここに登場している悪霊に引き込まれている子どもを助けること、苦しみを共有することである。それをそっちのけで論じ合っている。イエスはその子を私のところに連れてきなさいと言う。ここにイエスの原点がある。論じ合うことではない。こういうことが私たちの周りにも、世界全体にある。困難の中にある人への共感がない。

◇子どもの父は「おできになるなら・・・」と言ったが、イエスの言葉に全面降伏したその父親にイエスは応えられた。後に弟子たちに、この種のものは祈りによらなければ追い出せないと言われる。祈ることは論じ合うことの対極にある。21世紀の現代社会が抜け出せないで喘いでいる重荷を私たちがひたすら神に祈ることで神が突破口を切り開いてくださる。

◇弟子たちおよびこの時代に生きるすべての者を叱るイエスの言葉は、我々を粉砕するのではなく、祈りへと導き、祈る者を自分へと引き寄せてくださる言葉である。主はそのような私たちを見捨てず助けてくださる。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com