2018/10/28
「死は勝利に呑み込まれた」
コリントの信徒への手紙一15:50〜58
牧師 古屋 治雄
− 在天会員記念礼拝 −
◇この一年、私たちは、教会に連なる多くの兄弟姉妹を神さまの御許に送った。
◇葬儀の折、私たちは互いに慰め合い、手を差し伸べあう。しかし、その葬儀の礼拝の中で、一貫して示されているのは、悲しみに打ちひしがれる中、神ご自身が働いていてくださるということ、上からの慰めをくださるということである。
◇主は言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」死さえも、神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。
◇今日の御言葉には、私たちが精一杯に慰め合うことを、凌駕する神の慰めが示されている。パウロは畳み掛けるように語っている。主イエスキリストが私たちの死すべき死を引き受けてくださり、神さまはキリストを三日目によみがえらせてくださった。それと同じように、私たちもよみがえることができる。終わりの時に、キリストが再び来てくださり、召された一人一人を呼び起こし、永遠の命に生きるものにしてくださるのである。
◇私たちはイエス・キリストの復活を信じている。そして、私たち自身もまたイエス様と同じように死の床から呼び起こされる希望がある。福音の総仕上げとしてそのことが告げられているのである。
◇これは知識や理性を超える秘儀である。神さまが何をなしてくださったかその御業に目をむけるとき、私たちは死を超える望みを持つことができるのである。
◇私たちも、間違いなく地上の生涯をいつか閉じる。しかしそれは終わりではない。イエスさまが再び来られ、私たちを呼び出してくださる。私たちは永遠の命に憩うものとされる。これが私たちの信仰の総決算なのだ。
◇「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」死のむなしさに沈みそうになる私たちの上に、この御言葉が響く。私たちは確かにこの希望を聞いた。この希望に支えられて地上の歩みを歩みぬきたい。
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