礼拝説教


2019/01/20

「主イエスの権威はどこからか」

マルコによる福音書11:27〜33
 牧師 古屋 治雄

◇イエス様はエルサレムで、群衆だけでなく、ユダヤ社会に責任を担っていると自負する祭司長、律法学者、長老たちと激しいやりとりを繰り広げなくてはならない。

◇宮清めの出来事に接した指導者たちは、イエス様に、何の権威でこのようなことをしているのかと問う。神の権威によっているというイエス様の言葉を引き出せれば、神を冒涜するものとして断罪できると思ったのである。

◇この問いは、謙虚な問いではなく、悪意からの問いである。彼らが寄って立つ権威の急所が問われていることに気づいているのである。

◇イエス様は、質問をされた。ヨハネの洗礼は天からのものであったか、人からのものであったか。この問いによって、明らかにされたことは、指導者たちは、神を恐れるのではなく、群衆を恐れている事実であった。

◇イエス様はエルサレムでのやりとりを通じて、ご自分を迎える群衆や指導者たちの心の中に本当にうごめくものが何であるかを明らかにされたのである。

◇神の権威も、あるいは神の愛も、赦しも、説明できるというだけでは、それを本当に知ったことにはならない。イエス様の権威の領域の中に、私たちは引き込まれて生きるのである。神様の御力が、私たちの罪を赦してくださるという仕方で、本当に発揮されていること、このことに打たれることによってしか、私たちは神様の権威ということを本当に知ることはできないのである。

◇私たちが信仰生活を形だけのものとしてつじつまを合わせようとするのではなく、本当に神様の権威に与り、そのもとを生きているか、イエス様は問うておられる。

◇イエス様は、十字架に向かわれることによって、神の権威を決定的な仕方で私たちに示してくださった。私たち阿佐ヶ谷教会の群れは、この権威をまことの権威とし、そのもとに生きるものとされて、歩んでいきたい。

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