礼拝説教


2019/03/10

「神によって生きる」

ルカによる福音書20:27〜40
  栗田草太郎 神学生

◇復活とは何か新しい出来事なのだと、主イエスは教えておられる。それは「天使に等しい者」とされるような新しさである。

◇今日、主イエスの前に現れたサドカイ派は、律法における結婚の規定を持ち出し、復活が不合理をはらんでいるということを、主イエスにつきつけた。彼らの理屈を私たちは屁理屈と馬鹿にすることはできない。私たちもまた、私たち自身の常識やこの世の枠組の延長として復活を考えてしまう危うさの中にいるからだ。

◇主は、そうしたサドカイ派の思い違いを指摘した上で、復活は、神の約束そのものに根拠付けられるということを語っておられる。

◇モーセが召しだされたとき、既にアブラハム、イサク、ヤコブは、葬られて数百年が経った死者である。しかし、それにもかかわらず、神は「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られる。神が、わたしの神になってくださること。その約束に復活の希望の根拠がある。

◇その上で、主は、生きるとは、「神によって」生きること、すなわち「神に対して」生きることだと教える。生きることには方向がある。何との関係で生きているかが問題なのである。永遠のお方である神に対して生きる、「神の子」としての命に終わりはない。

◇私たち自身が、この復活にふさわしいものとされている。私たち自身のうちには、永遠の命に値する価値は何も見出せない。しかし、神は恵みをもって私たちを選び、信仰を与えてくださった。洗礼のとき、私たちは罪に対して生きる者から、神に対して生きるものとされたのである。

◇たとえ私たちが墓に葬られても尚、神は「私はあなたの神である」と言ってくださる。この約束にゆだねるところに、希望がある。「復活」を嘲笑する時代かもしれない。しかし、私たちは、この約束に堅く立ち、確信を持って「我は体のよみがえりを信ず」と告白する群れなのである。

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