礼拝説教


2019/05/19

「苦難を経た者に主の栄光が」

マルコによる福音書13:24〜37
  牧師 古屋 治雄

◇聖書の信仰に立つ私たちの生活は、初めがあり終わりがある壮大な歴史の中にある。神様が光あれと言われた世界、つまり「時」が与えられその中に私たちは生かされている。これが私たちの初めである。終わりとしては、私たちは御国を来たらせたまえと祈り、私たちは神様が必ず御国を来たらせる確信の中に生かされている。

◇13章で4人の弟子に天地創造、世の終わり、「天地は滅びる」と語られる。私たちは普段の生活の中で世の終わりを語ることは少ない。イエス様は預言者のように語り、神様の壮大な歴史の中で十字架と復活が起ころうとしていることを、ユダヤのメシア待望と関連させて語っておられる。

◇終末について、イエス様は圧倒的な力で悪に審判が下ることを黙示的に語っておられる。当時のユダヤの人々は迫害など厳しい状況が起こっても人の子が来て神の民を救って下さると信じていた。この超自然的な救いの待望に相反する受難の予告と神様の支配をイエス様は予告される。しかし、人々はそれをメシアの予告ではないと拒絶する。

◇イエス様はいちじくの木の譬えで天変地異に狼狽せず人の子が戸口に立つことを感知する能力を磨けと言われる。人の子が戸口に近づいたことを悟るとは、手が着かない混乱の中でも、そのようなときにこそ地道な生活を見つけよということである。イエス様は世の人が世の終わりを破局と思うとき、その後に神の誠の支配が到来する、目を覚ましていなさい、そのことに信頼して日常の生活を続けるよう勧められている。

◇ヨハネの福音書では形は違うがイエス様の勧めが描かれている。私はあなた方を孤児にしないと言われ、私はすでに世に勝っているとも言われた。世の終わりを待望するものとして、その希望の中に弟子たちは結ばれている。弟子たちの希望は二千年後の今日私たちに結ばれ、天地創造からの歴史の中に生かされているのである。阿佐ヶ谷教会もこの歴史の中に立ち大事な役割を任されている。弟子たちの恵みは脈々と私たちに受け継がれている。

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