礼拝説教


2019/06/02

「主イエスの死を見据える」

マルコによる福音書14:1〜9
  牧師 古屋 治雄

◇あれほどの奇跡の力を発揮され、人々の関心を集めておられたイエス様がなぜ、全く逆の十字架の死に向かわれたのか、私たちは疑問に思う。エルサレム神殿で宮清めをなさったイエス様に対してユダヤ人指導層は殺意まで抱いていた。もちろんイエス様はそれを見抜いておられたが、彼らに対抗しようとするのではなく、預言的な言葉でご自身の十字架がこの世界にどういう意味があるかを弟子たちに語られ、励まされる。(13章)

◇14章3節でイエス様は重い皮膚病の人シモンの家に泊られた。受難の予告をなさった後も、イエス様は弱い人、貧しい人に愛のまなざしを向けておられることがわかる。ここでイエス様は予期せず一人の女性に香油を注がれる。居合わせた人々が無駄遣いとの非難を浴びせる。「無駄」とは「意味がない」、または「ほろびをもたらす」という意味である。イエス様をお慕いする気持ちや、尊敬の気持ちから香油を全て注ぎかけた女性は困ってしまった。しかしイエス様は「するままにさせておきなさい。埋葬の準備をしてくれたのだから。」と、意味がないかのように思われたこの女性の行為に、新たな意味を与えてくださっている。

◇弱い人、貧しい人への施しを主は喜ばれる。しかしイエス様の十字架の犠牲の意味を重く受け止めなければならない。私たちが十字架にその意味を問うのではなく、十字架のほうが私たちに「あなたはイエス・キリストの十字架にどのように結ばれているのか」と問いかけてくるのである。

◇イエス様は十字架で私たちの罪を背負って死んでくださった。それだけでなくイエス様の十字架は、信じる人のみならず、十字架に追いやった人々をも包み込み、一人ひとりに問いかけ、福音として注がれるのである。

◇この女性も自分の行動が十字架に結ばれて、自分自身が再発見されたことに気づくのである。私たちもイエス様の十字架のできごとに結ばれ、自分の意味、自分の姿、生きる意味、生かされている意味を見出す者となりたい。

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