礼拝説教


2019/07/07—聖霊降臨節第5主日礼拝—

「本心が顕わに見えるとき」

マルコによる福音書14:10〜21
  牧師 古屋 治雄

◇今日の聖書箇所はイエス様の最後の晩餐、過ぎ越しの食事についての記事である。出エジプトの恵みを思い起こすこの祭の時、多くの人々がエルサレムに上ってきているので、食事の席を用意することさえ容易ではなかった。しかし不思議なことにイエス様がおっしゃったとおりに大広間に準備が整えられていたのである。(12〜16節)

◇イエス様の予知能力はそれにとどまらず、十二弟子の一人があろうことか、イエス様を渡そうとしていることをはっきりとお語りになる。イエス様はこの予告なしに食事に入ることはなさらなかった。裏切ろうとしている弟子(ユダ)だけでなく、ぜひとも十二弟子全体に言っておかなければならなかったのである。

◇ユダも最後の晩餐から除外されてはいない。裏切りを察知していたにもかかわらず、イエス様はユダの足さえも洗っておられる。イエス様は十二弟子を最後までご自分のもとに招き、呼びかけ、食事に与らせ、足を洗い、十字架の出来事の中に留めてくださった。神様は全ての人を救おうとされる。しかし神の裁きがイエス様によって廃止されたわけではない。私たちは終わりの日に裁きの場に引き出され、自分の言動について神様の前で問われるのである。「生まれなかった方が、その者のためによかった。」と語られる言葉を聴く限り、ユダはやはり救われないと考えるほかない。

◇イエス様は非常に厳しい言葉をかけられたが、私たちは終わりの日の裁きを案ずる必要はない。イエス様に赦され、御前に頭を垂れ、懺悔し、十字架と復活のゆえの新しい命に生きるその望みにしがみつく限り、私たちの救いに一切の陰りはない。その望みのゆえの使徒的な役割を担う教会の歴史があり、私たちの歩みがある。

◇聖餐式制定の基礎になった出来事の中にイエス様の厳しい裁きの言葉があったことを、私たちは軽んじたり、無視したりすることはできない。その重みをしっかりと受け止めつつ、新しい命へと招かれている恵みの大きさを新たに受けとり、感謝しつつ、与えられた歩みを歩み抜きたいものである。

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