2019/07/14—聖霊降臨節第6主日礼拝—
「神の国の晩餐に招かれている」
マルコによる福音書14:22〜26
牧師 古屋 治雄
◇礼拝にはどういう意味があるのか。イエス様の十字架と復活の出来事の後に、あの使徒たちが再び集められて、イエス様の復活を述べ伝える新しい群れとして、主の日の礼拝が大事にされて教会の歴史が続いていった。主の日という言い方がいわれるようになったが、それはイエス様の復活を記念する日である。イエス様の甦って下さったことを覚えて集まったのが主の日の礼拝となっていくのだが、それよりもっと根本的に聖餐に与るということが大事なこととして受け止められていた。
◇今日の聖書の箇所の前後には、ユダが裏切ることが予告され、ペトロたちも裏切ることが予告されている。その只中で聖餐の恵みがイエス様によって与えられている。この食事が過ぎ越しの食事であるとイエス様は言われた。過ぎ越しの食事の意味を振り返ると、神様がなして下さった出エジプトの救出の恵みを感謝し、忘れないために、そしてふさわしい歩みをしますという決意表明を含んで継承されていた。しかし、イエス様は全く違う意味に塗り替えられた。
◇新しい群れはパンを裂いて主の晩餐に与るようになり、それはイエスキリストの特別な恵みを覚える特別な食事となった。過ぎ越しの食事の伝統を受け継ぎながら、その枠を超えてイエス様がご自身を私達にお与え下さったということが、体と血というイエス様のおっしゃった言葉によってはっきりと示されるようになった。
◇体が裂かれ血が流されて契約が結ばれていたことをイエス様は全部ご自分の中に引き受けて執り成しをして下さった。私達はこのことを重く受け止めなければならない。私達はイエス様の執り成しの晩餐の恵みに招かれて、「取りなさい。」との言葉でパンを取ることができ、それを味わうことができる。
◇礼拝では神様の御言葉が語られ、私達の中に息づき、私達は変えられる。聖餐式は目に見え、味わう御言葉である。味わった御言葉によって私達は生きる。この喜びをさらに多くの方達と分かち合う役割が私達に託されている。
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