礼拝説教


2019/08/18—聖霊降臨節第11主日礼拝 —

「主イエスを裁く者が裁かれている」

マルコによる福音書14:53〜65
  牧師 古屋 治雄


◇当時のユダヤ社会の最高法院に関する規定には、神殿の「切り石の間」で裁判をしなければならない、夜間や、大きな祭りの期間には裁判をしてはならない、などが定められていた。これらに照らしてもイエス様の裁判は違反だらけの不当な裁判であった。

◇律法の本来の意味は、神様の恵みに応えて生きる生き方の具体化である。安息日をめぐる論争などでイエス様は律法の本当の意味を理解するよう促しておられる(2:23以下)。しかしユダヤ指導層は律法を守るかどうか、でしか理解していなかったので、イエス様に殺意さえ抱くようになる(3:6)。また彼らは神様を忘れて、神殿で自分たちの利益を上げることだけを考えていた(11:15以下)。イエス様が宮清めをせずにはいられないほど堕落していたのである。彼らのイエス様への殺意が強まる。このように「まず殺意ありき」で、イエス様に対する裁判が行われたのである。

◇大祭司はイエス様に「お前はメシアなのか」と問う。イエス様は「そのとおりである」とおっしゃる。その言葉は地上の支配者がすべて退けられ、メシアが王国を永遠に統治されることにつながる(ダニ7)。ユダヤ指導層には「神の民を圧迫する者を退け滅ぼす」というメシア観があったから、大祭司は「お前がメシアであるはずがない」として衣を裂き、イエス様を死刑にする。しかしイエス様が裁きをその身に受けてくださることによって、主イエスを裁く者が裁かれ、その罪が明らかになるのである。

◇律法を守るかどうか、神の民かどうか、が問題なのではない。神様に対して真っ直ぐ向いていない者、神様の前に正しくあろうとしていない者はやはり裁かれる。私たちも裁かれる。しかし断罪されて滅ぶのではない。イエス様はその裁きを身に受け、十字架上での死によって、すべての人をご自身のもとへ引き寄せてくださる(ヨハネ12:31以下)。その出来事の本当の意味に気づかされる時、私たちは贖いの恵みに生きる者とされる。その恵みに感謝し、主に引き寄せられて新たに歩む者でありたい。

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