礼拝説教


「完全な自己崩壊」

マルコによる福音書14:66〜72
  牧師 古屋 治雄


◇大祭司の屋敷の中庭で、この家の女中という意外なところから声をかけられ、ペトロ自身、思いがけない形で答えてしまう。イエス様の弟子であることを否定し、イエス様がメシアであることを否定し、イエス様による神の国の到来を否定した。イエス様を完全に否定してしまうのである。

◇人間は、いざとなれば開き直り、前言との整合も考えず言いつくろい、自己弁護し、自分の命を守ろうとするおぞましい存在である。大きな失敗をして自分で責任が取れないと知ったとき、自分で自分が嫌になり、身動きが取れなくなる。この状態を自分で解消しようとするならば、ごまかし通すか、自分に終止符を打つか、である。

◇ペトロとユダを比較すると、ユダは徹底して自分のことを思い詰め、自分に終止符を打ってしまった。ペトロは、イエス様を完全に否定してしまったとき、鶏の声を聞いてイエス様の言葉を思い起こし、自分の姿に気づいて泣き崩れる。わずか2〜3時間前、イエス様ははっきりと弟子たちの裏切りとペトロの否認を予告されていたからである。

◇ペトロは自分で自分を受け止め、自己嫌悪に陥ったのではない。ここが重要な点である。私たち人間が、自分で責任の取れない存在であることをイエス様は見抜いて知っておられる。しかも先んじて迎えてくださる。(14:27-28)だから私たちは、自分で自分が嫌になる時も、弁解の余地がないと気づかされる時にも、ごまかし通す必要も、自分で終止符を打つ必要もない。素直にそのことを受け入れることができる。ペトロが鶏の声に気づかされたように、イエス様の声を聞くことができるのである。イエス様は、私たちを根本的に変え、愛し通し、その責任を自ら負って、新たな命に生かしてくださる。その声は地上のすべての人を招いている。教会はその命に招かれ生かされている者の群れである。ペトロはイエス様の十字架と復活の出来事に出会い、変えられて福音を命がけで伝える者となった。私たちもまたイエス様の恵みに感謝し、支えられて、イエス様の招きの声を伝える者でありたい。


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