2019/10/20 <全家族礼拝>
「神の国の到来は絶たれたのか」
マルコによる福音書15:42〜47
牧師 古屋 治雄
◇先月の全体修養会で外部の人にとって教会は敷居が高いということが話題になった。教会は特別な人が行くところであると誤解を受けている節がある。教会はどういうところか答えると、「教会は神の愛が満ち溢れているところ、神の国(天国)が先取りされているところ」と言える。
◇マルコによる福音書の最初でイエス様はこう宣言された。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これにより、イエス様の様々なお働きによって確かなものとなって、困難の中にいる人々がこんなことがおできになるのは神の子に違いないと確信したのであった。しかし、福音書はイエス様が最後には人々に捨て去られ、弟子達もまた受難予告を受け止めることができずに逃げ去ってしまったことを伝えている。神の御子なのに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦しい叫び声を上げて亡くなられ、あの輝かしいお働きをされた神の子イエス様とは思えない惨めな死であった。
◇イエス様が十字架で死んでしまわれて、アリマタヤのヨセフは逮捕されるかも知れないと思いながらも勇気を出してイエス様の遺体を引き取り、死んでしまわれたと悲嘆に暮れた。「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるところから、多くの人が神の国を待ち望んでいたことがわかる。イエス様のご遺体を抱えたヨセフはこれでおしまいだと思ったであろう。しかし、私達はここで終わりでないことを知っている。
◇イエス様は十字架にかかって死ぬことを預言され、それに続いて三日目に復活されることを預言された。神の国を待望していた人々にイエス様の死を通して、それは無残に終わったのではなく、本当の神様の新しい救いの始まりを告げている。ヨハネによる福音書にはイエス様の最後の言葉は「成し遂げられた」であると書いてある。それはイエス様の死と甦りを通して、神様が本当の力を現し、成し遂げられたのである。阿佐ヶ谷教会は二千年の教会の歴史の中で、神の国の到来の喜びの中に、恵みの中に呼び集められ、生かされているのである。
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