礼拝説教


2019/11/10

「力を与える叱責」

マルコによる福音書16:14〜20
牧師 古屋 治雄

◇マルコによる福音書は本来、16章の8節までで終わっていたと考えられている。それ以降は後代の付加であるとされ、新共同訳聖書でも括弧に入れられている。この部分について他の福音書の並行記事を読み比べてみると、復活のイエス様についてよく似た記述がされていることに気づく。さらに注意深く読むと、マルコだけが伝えている事柄もある。

◇まず14節、イエス様が現れ、弟子たちの不信仰とかたくなな心を「おとがめになった。」はっきりと「とがめられた」という記述は他の福音書にはない。この「おとがめになった」という言葉は原語のギリシア語では、15章32節で一緒に十字架につけられた二人の罪人がイエス様を「ののしった」と書かれているのと同じ言葉で、非常に強い言葉である。

◇自分たちがあれほど立派な決意表明をしていたのに、不誠実な、無責任な行動をとってしまった弟子たちは重い罪責の念を抱えていたことであろう。しかし甦りのイエス様のとがめだては弟子たちが「信じなかった」ことの一点である。イエス様は「なぜ私を見捨てて逃げたのか、釈明せよ」とは言っておられない。私たちの不誠実、背き、無責任、徹底的な自己中心性を責めておられるのではない。そうではなく、イエス様は私たちが罪の力に屈してしまう弱い存在であることをよく知っておられ、その責任を神様に裁かれる死をもってご自身が受けとめてくださっている。私たちを、神様に背きキリストに背く者であるがゆえにお見捨てにならず、私たちに現れてくださるのである。

◇この叱責の言葉に続いて15節でイエス様は「全世界に福音を伝えなさい」と命じられる。人間の常識では強く叱責した後、すぐに派遣されるとは考えにくい。しかしイエス様においてはこれが必然である。私たちは叱責されているが、委縮するのではない。勇気をもって新しい方向に進むことができるように、イエス様が送り出してくださるのである。私たちは、叱責されたところから喜びへと変えられ、起こされ、作り変えられ、喜びをもってイエス様の使命を担うように派遣されて行くのである。

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