礼拝説教


2019/11/24—降誕前第5主日礼拝—

「命を救う水」

ペトロの手紙一3:17〜22
伝道師 上田充香子


◇終末主日として守るこの礼拝。私たち自身の終末は「死」である。「死」にはだれしも不安や恐れを感じる。「死」を前にして、自分の人生を振り返る時、楽しい、嬉しい思い出よりも後悔している思い出ばかりがよみがえるのはなぜだろうか。人間の「死」と生きている間に犯してしまう「罪」が深く関係しているからである。しかし、その罪をイエス・キリストが赦してくださる。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」(18節)とある通りである。キリストの決定的なただ一度の苦しみによって私たちの罪が赦されたのである。

◇イエス・キリストは十字架に架けられ、死なれた後、捕らわれた者たちのところへ行って宣教された。ノアの洪水で滅びた人たち、神様を信じることのなかった人たちのために陰府にまで下ってくださって宣教なさった。死してなお、もう一度神様の福音を伝えに下ってくださる。このようにイエス・キリストは人間の目から見ると諦めてしまうような場所にまで行って宣教してくださる。不可能だと思うところに道を作り、そこを歩んでくださる。陰府に下り、また天に上られたように、普通なら考えられないようなところに道を通してくださる。その道は私たちが絶望と不安に陥る「死」よりももっと先にまで延ばされる。イエス様はいつだって私たちの先を歩み、私たちが歩きやすいように足跡を模範としてそこに残しておい てくださる。

◇更にイエス様はノアの洪水、つまり滅びの水をも救いの水と変えてくださる。洗礼の水と変えてくださる。神様、イエス様がいつも共に居てくださるということを信じる信仰、「正しい良心」を願い求めることが出来るようにされる。洗礼を受けるということは、イエス・キリストが罪の支配から守り、私たちの人生の責任をとってくださるということ。そして神様の御前まで連れて行ってくださり、私たちをキリストの名によって保証してくださる。そのイエス・キリストの足跡を辿る歩みを一人でも多くの方と共に歩みたい。

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