2020/02/16
「命の言に生きる」
ヨハネの手紙一1:1〜4
伝道師 上田充香子
◇阿佐ヶ谷教会96周年記念礼拝を終えて、私たちは100周年にむけて新たに歩み始めた。創立から今に至るまで、教会では礼拝がささげ続けられ、また私たちの交わりも守られてきた。教会とは、建物ではなく、礼拝に集う方々の共同体のことを指す。愛し合う主に在る交わりこそが教会なのである。
◇教会での交わりはまず、何よりも礼拝の中での神様、イエス・キリストと人間という縦の関係、その関係を軸にして、人と人との横の関係である。この「交わり」という言葉が今日の聖書の箇所には数回出てくる。「交わり」という言葉を活用させると、「共通」や「知らせる」というような意味にもなる。交わることは、相手に共通の知識を共有することなのだ。私たちは教会の交わりの中で共通の知識、共通の言葉を持つ。それは言語ではない。信仰である。世界中どこに行っても、私たちはこの共通の言葉である信仰を共有することが出来る。
◇ヨハネの手紙もまた、その共通の言葉を伝えようとしている。それが、「命の言」である。命の言は現れた。イエス・キリストそのものが命の言である。イエス様がこの世に来た意味、教えてくださった言葉、ご自分のすべてで現わしてくださった、愛と救い。これらすべてが命の言であり、私たちの共通の言葉なのである。
◇命の言を通して、イエス様は私たちを「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に加えてくださった。神様、イエス様を知るものとして、この交わりに招いてくださった。このことが私たちの喜びなのである。この喜びを私たちは「目で見て」、「よく見て」体験することが出来る。イエス様の救いによって与えられた聖餐がそうである。この目で見、この耳で聞き、この手で触れ、この口で味わうことがゆるされているのが聖餐の恵み。それほどまでにイエス様は私たちを愛された。この愛に応えたい。私たちもイエス様を愛する者とされたい。そして、聖餐の食卓にひとりでも多くの方を招きたい。誰よりもイエス様がそのように願われているから。ひとりひとりの歩みに主が伴い、「命の言」が生きて働きますように。
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