礼拝説教


2020/10/25-在天会員記念礼拝-

「死の陰の谷を行くときも」

詩編23:1〜6
牧師 古屋 治雄

◇この1年の間に私達は多くの人々と死別した。その死を冷静に受けとめることができないのが私達である。しかし、聖書の神様は私達を死の中に放置してはおられない。そのことを確信をもって言うことができる。今日与えられた詩編23編の1,2節は牧歌的な印象を受けるが、3節が平穏な日常からの言葉ではないことから、脅かされる日常の中で羊飼いなる神様がいてくださるので、1,2節のように安心して、満ち足りて、日々を送ることができると歌っているのである。

◇私達は死をどう受け止めているか。天国に行くんですよ、星になって見守っていてくれるのですよ、という受け止め方は一時的に死の悲しみを和らげるかも知れない。しかし、私達信仰者にとって、死について考えることは信仰の中心である。死を脇において生きるのではなく、死を受け止めていくことにある。

◇今日の箇所の信仰者たちは4節にあるように、神様の支えを受けて、死を避けて通らず、死を受け止めようとして歩み抜いた。彼らは直接イエス・キリストを知ることはなかったが、私達はすでに知っている。このキリストが先んじて私達の死を負って罪人として裁かれてくださり、そこから復活して、私達が新しい命に生きることができるようにしてくださったことを。私達は3節後半から4節に告白されている神様を指す言葉を、十字架にかかり死んでくださったイエス・キリストに置き換えて告白することができる。キリストよ、あなたがわたしと共にいてくださる。

◇主イエス・キリストは私達に主の祈りを教えてくださり、今も私達に先立って一緒に唱和して祈ってくださっている。それと同じように、この詩編23編においても今なお地上の歩みを与えられている私達が祈ることができるようにキリストが働いてくださる。そして、すでに召された人々が死に直面した時にもキリストが働いてくださったことを信じることができる。主を思い起こす時に死の絶望に沈むことはない。主に結ばれている者として、なすべきことをなして歩んでいく、そういう群れの中に主は招いてくださっている。

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