礼拝説教


2021/04/25

「立ち帰って、生きよ」

エゼキエル書18:25~32
伝道師 上田充香子


◇子どもの頃は親に対する信頼感から、なんでもかんでも親のせいにしがちである。まるで自分に責任がないかのように親のせいにしてしまうのである。イスラエルの民もまた、すべてを親のせいにしていたのである。その背景には自国であるイスラエルがバビロンによって捕囚され、連行され辛い奴隷生活を送っていた。すべてが投げやりになり、その思いを親へ責任転嫁することによって気持ちを保っていたのである。親が神様に逆らったことで、捕囚され、この先も神様の祝福にあずかることも出来ないことをもすべて親の責任としていた。

◇また同時に、イスラエルの民を祝福すると約束してくださった神様に対しても、神様から見放された思いの中で、約束を守ってくれない神様に怒っていた。しかし、そのようなイスラエルに対してエゼキエルを通して主は「わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」(25節)と問いかける。なぜなら神様はイスラエルの民を一人も失うことを望んでおられなかった。神様はひとりひとりに関わってくださる。たとえ親が神様に背いたとしてもその罪が子に及ぶことはない。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(31~2節)

◇この呼びかけは私たちにも語られていることである。私たちの死も神様は喜ばれない。生きることを望んでおられる。そのために、私たちが犯している背きを「投げ捨てる」こと、新しい心と新しい霊を「造り出す」ことが求められている。どちらもただ与えられるのを待っているだけではなく、自ら行動を起こす言葉である。旧約聖書を通して新約聖書をも与えられている私たちは、誰の死をも喜ばれない神様が主イエスを犠牲として十字架に架け、復活してくださったその命に、自らの足で与りにいくことが求められているのである。親のせいにするのでもなく、神様のせいにして冒涜するのでもなく、正しい主の道に立ち帰って生きるのである。

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