2021/05/09
「イエスという別の王がいる」
使徒言行録17:1〜9
牧師 古屋 治雄
◇テサロニケに入ったパウロは、聖書の内容を「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と簡潔に要約する。しかしこの時代のユダヤ人が持つダビデのような王としてのメシア像と、パウロが語るイエス様の姿はかけ離れていた。
◇聖書(現在の旧約)にはイエス様の十字架が描かれている。苦難の僕の歌(イザヤ53章)がそれである。しかしユダヤ人たちはメシアが栄光の王として来られると思っていたので正しく読み取ることができなかった。弟子たちでさえ、イエス様の受難予告を認めることができなかった。ところがイエス様は十字架に死なれただけでなく、復活され、弟子たちに出会ってくださった。彼らは復活を喜び、懺悔し、赦され、福音伝道の担い手とされたのである。
◇犠牲や死をも厭わない、自分を十字架につける敵をも赦すという生き方をイエス様は貫徹された。そして復活され、自ら真のメシアであり、神の真の支配を示された。しかし力による支配や自己中心の価値観が当たり前の世の中はこれを認めない。それでも主の生き方、死に方、その復活を聴くとき、福音そのものが働き、それを拒否する者さえも変えられ、信ずる者が起こされるのである。
◇反感を持つユダヤ人たちはパウロらを捕えようとする。しかし正当な理由を見出せないので「皇帝にたてついて別の王を宣伝する者がいる」とローマの権力を利用しようとする。これはイエス様の十字架の出来事を想起させる。あの時、ユダヤ人たちは「王であると自称した」と明記するように求めたが、ピラトはそれを退けた。イエス様はユダヤ人の王、世界の王として殺されていった。そのことは当時の国際語でも伝えられた(ヨハネ19:19-22)。
◇私たちは主の祈りで「み国を来たらせ給え」と祈る。これはイエス様がメシアとして世界を支配しておられ、やがて再び来られ、この地上を神様のご支配に包んでくださるという信仰を表している。自己中心の想いから解き放たれ、赦されて生き、赦し合い、神様の愛に生きる。そういう素晴らしい世界が私たちには始まっているのである。
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