礼拝説教


2021/7/11—聖霊降臨節第8主日礼拝—

「助け主をどう呼ぶか」

使徒言行録19:11〜20
牧師 古屋 治雄

◇今日の聖書箇所にはパウロたちのエフェソでの伝道の二番目の出来事が伝えられている。8節ではパウロたちは神の国について大胆に論じていたが、今日の箇所ではそれに加え、様々な癒しの奇跡によって神の国の御支配を目に見えるかたちで現わした。

◇人口25万人ほどのこの町には町々を巡り歩く複数のユダヤ人祈祷師たちがいた。パウロたちの奇跡的働きにあやかりたいと思った祈祷師たちの中には、試みに、主イエスの名を唱えて悪霊追放をやってみた祭司長の7人の息子たちがいた。彼らは悪霊に取りつかれている男から正体を見破られ、ひどい目に遭って逃げだした。

◇いつの時代も、困難な生活を強いられている人、多くの不幸を背負っている人々がいて、怪しげな、お金がらみの「祈祷師」たちがそこから脱出させてくれると信じられている。世の中がそれを求めているのである。これは今も同じであり、初代教会を通して今日の私たちの使命が告げ知らされている。

◇今日の箇所の祈祷師たちの第一の間違いは「試みに」主イエスの名を唱えたことである。みだりにその名を唱えたことにより、十戒の第三番目の戒めの罰を受けたのにほかならない。また、「パウロが宣べ伝えている」と又聞きで主イエスの名を使った。自分が呼び求める「神なるもの」が誰なのか知らないし、知る必要も感じていない。こういう信心を聖書は「魔術」と断定する。主イエスの名によって示されることは、私たちが神様の憐みを受けて生きることができるように十字架で死なれ、私たちを復活の命に招いてくださったことである。イエス様が何をしてくださったかを知らずしてイエス様の名を呼ぶことはあり得ない。

◇この祈祷師たちのことがエフェソで知れ渡り、福音によって新しく生きる救いの出来事が生まれた。私たちは全人格をかけて神様を呼ぶ者とされている。詩編118:8に「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。」とある。試みにでなく、又聞きでなく、心の底から主イエスの名を呼び、不確かな信心で苦しんでいる人々に、主イエスの名を呼ぶ者をお見捨てにならない確かなる助け主がおられることを伝えたい。

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