2021/11/7
「裁判によって福音は裁かれるのか」
使徒言行録25:13〜22
牧師 古屋 治雄
◇私たちの信仰の基盤は「イエス様こそ救い主である」という福音である。世の力はしばしば、これを信じる者に裁判という形で迫って来る。使徒言行録によると、パウロは周囲の忠告を押し切って、献金を携えエルサレムに上る。そして案の定、捕らえられてしまう。「伝道旅行」が護送のための移動に変わってしまう。パウロにはローマを越えてイスパニアまで伝道に行きたいとの希望があった(ローマ15:22-24)が叶えられない。カイサリヤに移送された後も2年間、軟禁状態に置かれ、彼の伝道は頓挫したかに見えた。
◇パウロは、決して正当とはいえない裁判の場に引き出される。告発している者は熱心なユダヤ教徒、大祭司たち、アグリッパ王らである。一方ローマの支配者たちは、ローマ帝国の支配を揺るがす恐れがない限り、ユダヤ人の宗教的独自性を限定的に認めていた。
◇パウロが裁判にかけられている理由は、イエス様が十字架で死なれ、復活してくださったと宣べ伝えていること、そして信じる者はどんな状況であろうと、新しい生命の希望があると信じていることである。総督フェストゥスはこの裁判の論点を正しく把握しており、ローマ法に基づくなら罪状は見出せない。しかしユダヤ人に気に入られようとして(25:9)エルサレムへ、ユダヤ人たちの手に裁判を差し戻すことを提案する。パウロはこれを拒否して皇帝への上訴を選ぶのである。
◇パウロは今、福音を担う者として裁かれている。しかしこの時、実は福音の力によってこの世の様々な思惑や矛盾が裁かれている。裁かれている福音が、逆にこの世の力を裁いているのである。フェストゥスは福音を信じているわけではないが、「イエスが生きているとパウロは主張している」と的確に述べている。福音には裁く側の者にこう言わせる力がある。パウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)とも言う。現代の様々な困難の中で福音を担う私たちも、恥に落とされることはない。私たちもこの励ましのうちに歩もう。
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