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「永遠の命を得るために」 |
イザヤ書55:1-5、ヨハネ6:27-35
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大村 栄 牧師
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◇ヨハネ福音書6章は「5000人に食べ物を与える」記事から始まる。あの出来事に感動した人々は、ガリラヤ湖対岸の町まで主イエスを追うが、主は彼らに、「26:あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘し、「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられる。これを目指し、求めて生きることが、キリストを通して神から与えられる人生の新しい意義であり、喜びである。
◇その価値に気づいた群衆は、それを得るためには「28:何をしたらよいでしょうか」と問う。「永遠の命」は何かの行為に対する報酬だと考えている。しかし主は行為に対する報酬でなく、「29:神がお遣わしになった者を信じること」のみが必要と告げる。すると群衆はキリストを信じるための保証を求める。「31:わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」。出エジプトの際にモーセを通じて与えられた食物、あれと同じようなしるしを見せてくれ、そうしたらあなたを信じようと言う。
◇主の答えは「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これ以上のしるしはない。主を信じる者の命を、神は「飢えない、乾かない」ものに変えて下さる。「27:永遠の命」は終わりの日の希望であると同時に、今ここで信じる者に実現する恵みである。
◇聖書はこの福音を私たちに語る書物である。5:39「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。聖書は読んだら終わりではない。薬の効能書きと似ていて、読んだらそれを信じて飲む決断が不可欠。聖書は福音を信じて生きることを私たちに求める。
◇キリストに表面的な豊かさだけを期待した群衆は、やがて「41:つぶやき始め」、それまで「群衆、人々」と呼ばれていた彼らは、「ユダヤ人」と呼ばれるようになる。ヨハネで「ユダヤ人」と言えばイエスを十字架に付けた人々のこと。自分を変えないで、キリストを評価しようとする人は、彼を否定し十字架に付ける者となるのだ。主イエスは「永遠の命に至る食べ物」であるならば素直にこれを飲み込もうではないか。それを象徴するのが聖餐であり、そこへの招きに応えるのが洗礼である。復活の主によって霊肉共に養われるものでありたい。
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2003.11.23 降誕前第5主日 |
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「真理とは何か」 |
エレミヤ書23:1-6、 ヨハネ福音書18:33-40
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大村 栄 牧師
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◇ポンテオ・ピラトによるキリスト尋問の場面。ピラトの最大の関心はイエスが「33:ユダヤ人の王なのか」、つまり反ローマ抵抗勢力のリーダーなのかという点。しかし主イエスは「36:わたしの国は、この世には属していない」と答える。彼の属する国は地上の領域ではなく、神の領域に属する世界である。まったく土俵が違う。しかしピラトは理解できず、「37:それでは、やはり王なのか」と問う。どんな国であろうと、そこの最高権力者であるなら、それなりの責任を要求するのがローマ的判断である。
◇ローマ的な偶像崇拝の世界では、王は神をも自由に扱うほどの存在と考えられていたが、ヘブライズムの絶対神信仰においては、王は常に神の前でのあり方を問われる。王は神への畏れをもって民に奉仕する。それを怠るならば、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(エレミヤ23:1)との裁きを受ける。「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10:7以下)を連想する。王と民の関係は、羊のために命を捨てる羊飼いと羊の関係を反映するものでなくてはならない。そしてそれは一つの王国における王と民でなく、すべての人間において実現されるべき、すべての人を根底で支える愛の関係である。キリストはその愛を実行するために来た。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)神がそれを実現せしめたのである。
◇この愛の支配こそが聖書全巻の示す「真理」である。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた」。しかしピラトは最後まで理解せず、「38:真理とは何か」と問う。彼の求める「真理」は合理的な判断に立って、「何か」と問えるようなものに過ぎない。昔も今も、人は真理を悟ることができれば賢くなり、様々な不自由から解放されると考えている。そういう便利な理論や方法として「真理」を求めている。だからピラトは「真理とは何か」と問うたが、答えなどあるまいとその場を去ってしまった。彼は自分の目の前にいるその人が「真理」そのものであることに気付かなかったのだ。
◇「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。主イエスご自身が生きた真理である。私たちは主イエスとの交わりを通して、神の愛と、それによる自由を生きる者となるように招かれている。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)。
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2003.11.16 |
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「恵みの善い管理者」 |
マラキ書21:4~9 Ⅰペテロ4:7~11 |
相澤眞喜先生
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◇キリスト教信仰は、終末信仰である。4節の「万物の終わりが迫っています」というのがそれである。この言葉だけ聞くと奇異に聞えるが、これは万物には終わりがあるということである。神はこの世界の自然も人間もすべてを創造し、支配されておられる。神が初められたのだから、終わりの時に完成してくださるという信仰である。Ⅰペトロ1:5に「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている報いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあるように、わたしたちは終わりの時に向って生きているのである.
◇終末に向って生きるわたしたちの信仰生活はどのようにあるべきか.まず第一に基本的な在り方として、「思慮深くふるまい身を慎む」ということである.健全な考えを持ち、心をしっかりとまとめることである.いつも目覚めた思いを持って判断を正しくすることである.それには謙遜でなければならない。神に対して謙遜になる時、人に対しても謙遜になり、そこから真の冷静さと敏感さが生まれるのである。「よく祈る」ことである.M.ルターは「祈りに対して裸になれ」と言っている.素直に自分の思を隠さず大胆に祈ることである。一切を神に委ねて絶えず祈ることである。「心を込めて愛し合うこと」、これはイエス・キリストの十字架の愛に生かされなければ成し得ぬことである.
◇第二に具体的な奉仕の業について教えている。10節に「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とある.善い管理者とは、忠実であること、つまり賜物を他者のために、神のために生かして用いることである。また各自に賜物が与えられているのは全体の益になるためである (Ⅰコリント12:4-8)。
◇わたしたちは、神からいただいた恵みを善く管理し奉仕する目的は、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」である.神の栄光のために、祈りつつ歩んで行きたい.
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