阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2003年11月)   
2003.11.30 待降節第1主日
「永遠の命を得るために」
イザヤ書55:1-5、ヨハネ6:27-35

大村 栄 牧師

◇ヨハネ福音書6章は「5000人に食べ物を与える」記事から始まる。あの出来事に感動した人々は、ガリラヤ湖対岸の町まで主イエスを追うが、主は彼らに、「26:あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘し、「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられる。これを目指し、求めて生きることが、キリストを通して神から与えられる人生の新しい意義であり、喜びである。

◇その価値に気づいた群衆は、それを得るためには「28:何をしたらよいでしょうか」と問う。「永遠の命」は何かの行為に対する報酬だと考えている。しかし主は行為に対する報酬でなく、「29:神がお遣わしになった者を信じること」のみが必要と告げる。すると群衆はキリストを信じるための保証を求める。「31:わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」。出エジプトの際にモーセを通じて与えられた食物、あれと同じようなしるしを見せてくれ、そうしたらあなたを信じようと言う。

◇主の答えは「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これ以上のしるしはない。主を信じる者の命を、神は「飢えない、乾かない」ものに変えて下さる。「27:永遠の命」は終わりの日の希望であると同時に、今ここで信じる者に実現する恵みである。

◇聖書はこの福音を私たちに語る書物である。5:39「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。聖書は読んだら終わりではない。薬の効能書きと似ていて、読んだらそれを信じて飲む決断が不可欠。聖書は福音を信じて生きることを私たちに求める。

◇キリストに表面的な豊かさだけを期待した群衆は、やがて「41:つぶやき始め」、それまで「群衆、人々」と呼ばれていた彼らは、「ユダヤ人」と呼ばれるようになる。ヨハネで「ユダヤ人」と言えばイエスを十字架に付けた人々のこと。自分を変えないで、キリストを評価しようとする人は、彼を否定し十字架に付ける者となるのだ。主イエスは「永遠の命に至る食べ物」であるならば素直にこれを飲み込もうではないか。それを象徴するのが聖餐であり、そこへの招きに応えるのが洗礼である。復活の主によって霊肉共に養われるものでありたい。



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2003.11.23 降誕前第5主日
「真理とは何か」
エレミヤ書23:1-6、 ヨハネ福音書18:33-40

大村 栄 牧師


◇ポンテオ・ピラトによるキリスト尋問の場面。ピラトの最大の関心はイエスが「33:ユダヤ人の王なのか」、つまり反ローマ抵抗勢力のリーダーなのかという点。しかし主イエスは「36:わたしの国は、この世には属していない」と答える。彼の属する国は地上の領域ではなく、神の領域に属する世界である。まったく土俵が違う。しかしピラトは理解できず、「37:それでは、やはり王なのか」と問う。どんな国であろうと、そこの最高権力者であるなら、それなりの責任を要求するのがローマ的判断である。

◇ローマ的な偶像崇拝の世界では、王は神をも自由に扱うほどの存在と考えられていたが、ヘブライズムの絶対神信仰においては、王は常に神の前でのあり方を問われる。王は神への畏れをもって民に奉仕する。それを怠るならば、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(エレミヤ23:1)との裁きを受ける。「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10:7以下)を連想する。王と民の関係は、羊のために命を捨てる羊飼いと羊の関係を反映するものでなくてはならない。そしてそれは一つの王国における王と民でなく、すべての人間において実現されるべき、すべての人を根底で支える愛の関係である。キリストはその愛を実行するために来た。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)神がそれを実現せしめたのである。

◇この愛の支配こそが聖書全巻の示す「真理」である。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた」。しかしピラトは最後まで理解せず、「38:真理とは何か」と問う。彼の求める「真理」は合理的な判断に立って、「何か」と問えるようなものに過ぎない。昔も今も、人は真理を悟ることができれば賢くなり、様々な不自由から解放されると考えている。そういう便利な理論や方法として「真理」を求めている。だからピラトは「真理とは何か」と問うたが、答えなどあるまいとその場を去ってしまった。彼は自分の目の前にいるその人が「真理」そのものであることに気付かなかったのだ。

◇「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。主イエスご自身が生きた真理である。私たちは主イエスとの交わりを通して、神の愛と、それによる自由を生きる者となるように招かれている。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)。


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2003.11.16
「恵みの善い管理者」
マラキ書21:4~9 Ⅰペテロ4:7~11

相澤眞喜先生

◇キリスト教信仰は、終末信仰である。4節の「万物の終わりが迫っています」というのがそれである。この言葉だけ聞くと奇異に聞えるが、これは万物には終わりがあるということである。神はこの世界の自然も人間もすべてを創造し、支配されておられる。神が初められたのだから、終わりの時に完成してくださるという信仰である。Ⅰペトロ1:5に「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている報いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあるように、わたしたちは終わりの時に向って生きているのである.

◇終末に向って生きるわたしたちの信仰生活はどのようにあるべきか.まず第一に基本的な在り方として、「思慮深くふるまい身を慎む」ということである.健全な考えを持ち、心をしっかりとまとめることである.いつも目覚めた思いを持って判断を正しくすることである.それには謙遜でなければならない。神に対して謙遜になる時、人に対しても謙遜になり、そこから真の冷静さと敏感さが生まれるのである。「よく祈る」ことである.M.ルターは「祈りに対して裸になれ」と言っている.素直に自分の思を隠さず大胆に祈ることである。一切を神に委ねて絶えず祈ることである。「心を込めて愛し合うこと」、これはイエス・キリストの十字架の愛に生かされなければ成し得ぬことである.

◇第二に具体的な奉仕の業について教えている。10節に「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とある.善い管理者とは、忠実であること、つまり賜物を他者のために、神のために生かして用いることである。また各自に賜物が与えられているのは全体の益になるためである (Ⅰコリント12:4-8)。

◇わたしたちは、神からいただいた恵みを善く管理し奉仕する目的は、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」である.神の栄光のために、祈りつつ歩んで行きたい.


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2003.11.09 降誕前第7主日
「祝福の源となれ」
創世記12:1~9, ローマ書4:13~25

牧師  大村 栄

◇我々の引っ越しは各自の都合によるが、アブラム(後のアブラハム)は神がすべてを備えて下さると信じて「4:主の言葉に従って旅立った」。引っ越しがなくても人生は旅だ。最終目的地は天の故郷。「主の言葉に従って」歩みたい。アブラムは「5:蓄えた財産をすべて携え」て出発した。後戻りはしないという覚悟が現れている。信じて飛び込んでいくならば、ヨチヨチ歩きのおさなごを待つ母のように、神は必ず手を添えて支えて下さる.甥のロトも同行するが、これが後にトラブルのもととなる。しかしそれによってアブラムは成長させられた.私たちの旅の重荷も同様であろう.

◇たどり着いた目的地には、「6:カナン人が住んでいた」.神はアブラムに、先住民と戦って土地を奪い取れと言うのか。「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ福音書5:5).最終的に土地を得るのは、戦って取る人々ではなく、柔和で謙遜な人々である.自分が勝つことより、神が最善を為して下さると信じる信仰が人を柔和にさせる.「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(ローマ4:13)。

◇結局イスラエルはカナン人と戦って彼らを追い出したのではない。最後まで共存関係を持ち続けた。イスラエル人は彼らから農耕技術を学んだが、同時に偶像礼拝の影響を受け、預言者たちはその排除に力を尽くし、神の言葉を求めて戦かった。望まざる共存だったけれど、ロトの同行のように、重荷と思える状況が成長の糧となった。思いのままに自分の周辺を整えたい願望を、どこまで抑制できるかが問われる。

◇アブラムは目的地に着いて、まず「8:祭壇を築き、主の御名を呼んだ」.引っ越したばかりで課達や不安は多い.しかし、神を呼ぶ祈りと礼拝は、彼にとって「すべきこと」ではなく、「せずにおれないこと」だった。人生はそれぞれの重荷をかかえた旅だが、最後の天国の故郷を目指して、新しい出発を繰り返していく.その時々に、私たちは「主の御名を呼ぶ」礼拝と祈りを繰り返すことによって支えられていく.

◇このような生き方をする者に向かって、神は言われる.「3:地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」.信仰者の旅は、自分を豊かにする旅である以上に、世界の「祝福の源」となる.旅を続けながら世界に祝福をもたらす源となること、これが私たち教会に召された者たちに託されている使命であり、喜びである.


                                    
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2003.11.02 降誕前第8主日
「独り子をお与えになったほどに」 
民数記21:4~9 ヨハネ福音書3:13~21

 牧師  大村 栄

◇先週の10月31日(金)は宗教改革記念日だった。1517年のこの日、ドイツのウィッテンベルクで、マルチン・ルターが教会の扉に95ケ条の提題を掲げ、当時ローマ・カトリック教会で行われていた免罪符の販売や煉獄の教えを批判した。これが宗教改革の引き金となったのである。煉獄は死者が罪の償いを果たすまで置かれて苦しむ場所。教会は、これが地上の家族の執り成しによって代償されると教えた。仏教の「追善供養」に似ている。「免罪符を買えば、死んだおじいさんは、煉獄から天国に席を変えられる」と言って資金集めをしたのだ。

◇「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしがそれを用意しに行くのだから」(ヨハネ14:2)と告げる「聖書のみ」を規準とし、行為ではなくただ「信仰のみ」によって救われることを信じる。その二点に宗教改革の精神は集約できる。

◇教会では死者のために供養はしないけれど記念式は行う。そして「キリストの記念」(Ⅰコリント11:24)としてパンとぶどう酒を分け合う聖餐式こそが、キリストにおいて眠ったすべての人々のための、最善の記念式である。「15:信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」に十字架に死んだ主イエスを仰ぎ見るのだ。

◇「16:神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ルターが「この一節だけで小さな聖書である」と言った言葉だが、私たちは独り子を賜うた神の痛みにどれだけ思いを致しているだろうか。

◇「阿佐ヶ谷教会の歴史を生きた人々Ⅰ」に掲載されている後藤豊という方は、優秀な学徒だったが結核に冒され、壮絶な病いとの戦いの末、1950(昭和25)年に30才の若さで逝去された。母の後藤文子さんが後に書いた本『暁の翼をかって』を読むと、彼女は愛するわが子を失うという厳しい体験を通して、父なる神が「その独り子をお与えになったほどに」世を愛されたことの重さを、身をもって知ったのだと分かる。

◇しかしそういう体験や理解はめったにあるものではない。人生に起こる苦難の意味も分からないことばかりだ。ヨブ記は「苦難の意味」を知るということをテーマとしている。しかしその主題は「分からない」ということだ。分からなくても、独り子をお与えになったほどに世を愛された神が、必ずや最善を成して下さる。その福音を告げる「聖書のみ」を信じる「信仰のみ」に生きることが宗教改革の原点なのである。


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